ドナルド・トランプの大統領選ゲーム攻略

2016年アメリカ大統領選の共和党予備選、ドナルド・トランプは4月の時点でまだ快進撃を続けている。この現象の謎には本場のアナリストも重鎮政治家たちも振り回され続けている。謎の正体をはたしてトランプ本人は知っているのか?もちろん知っている、そして全ては巧妙な計画である、と仮定してドナルド・トランプの頭脳の中身を想像してみる。

 

究極のシングル・イシュー候補

まずトランプを支持する層はどういう人々か。彼らの現実を理解する必要がある。

クローズアップ現代 「アメリカ大統領選挙」 - YouTube

 

トランプ支持者は番組で出てくるような人ばかりではないだろうが、不法移民によって生活が破壊された人々の現状は想像してみる必要がある。年収340万ほどで普通に暮らしていた人が年90万程度にまで落ち込み、親族を頼って暮らす。頼れる親族がいない場合はどうなるか。彼らにとって不法移民の問題は自身の生き死にの問題である。

 

不法移民には様々な問題がついて回る。アメリカは移民の国であり、道義的にもヨーロッパよりも正面切って移民排斥を唱えにくい。実はマルコ・ルビオは自身が移民2世である点を逆に利用して不法移民に対して強硬な態度を取っていた。しかし差し迫った生活の脅威に晒されている人々にとって大事なのは「本当にやつらを追い出してくれるのか」という点である。

 

ポリティカル・コレクトネスを気にする政治家が移民排斥を断行してくれるとは考えにくい。彼らにとってはPCだとか人道だとか言って自分たちを助ける事を後回しにする候補はいらない。堂々とタブーを犯して実行する候補を求めている。トランプは暴言を吐くにもかかわらず、ではなく、暴言を吐くからこそ支持されているのである。

 

トランプの繰り出す時代錯誤な日中混同の黄禍論、ジャパン・バッシングはまるで頭の中が80年代で止まっているかのように見える。しかし今生活が困窮している支持者にとってはそれは彼らが育った原風景であり、再び思い起こされるリアルな現実でもある。トランプは移民排斥を求める支持者の「外からやって来る侵略者を撃退して欲しい」という思いに寄り添う。

 

その「侵略者を撃退して欲しい」という曖昧な本音には、現在の世界では絶対悪とされる人種差別も含まれてしまう。不法移民に圧迫される人々は「異質な集団」に脅かされているという意識があるからだ。だからKKKの支持表明も無下にはしないし、またそれが問題になりこそすれ支持率低下にはつながらない。

 

ヒラリー・クリントンはバーニー・サンダースについて「格差是正だけを訴えるシングル・イシュー候補だ」と批判したが、実はトランプこそが「移民排斥」の一点だけで主張を組み立てる究極のシングル・イシュー候補なのかもしれない。

 

移民排斥などという危険な公約は既成の政治家には掲げることができない。だから共和党主流派を堂々と敵に回すことにより、支持者には「政治家じゃないからこそ移民排斥を断行できる」という印象を与えられる。彼らは閉塞した現状の破壊するヒーローを求めている。トランプはその役割を演じているのだ。

 

(一部の)アメリカ人の琴線

トランプの支持者が求めるのは苦しい現状の「破壊」であるとしても、その破壊後の廃墟にどんな希望を抱いているのだろうか。そのヒントとしてアメリカに流れる原理自由主義、言い換えれば成功者に対する信仰のような思想が理解の助けになるかもしれない。

 

日本人が知らないアメリカ的政治思想の正体 | アメリカ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

アイン・ランドなる作家・思想家の『肩をすくめるアトラス』という小説が現在の新自由主義の源流であるという記事である。記事の筆者はこの小説の翻訳者で、かつその思想の信奉者であるので注意して読む必要があるが、時々こちらの思考を停止させてくるアメリカ人独特の考え方を理解するヒントになる。

 

本の題名の意味は世界を支える巨人「アトラス」がもしあきれて肩をすくめたらどうなるのか、世界が崩壊するではないかという意味である。本の中身は読んでいないのでランド思想について詳しくは分からないが、記事から伺えるのは「成功者の被害者意識」みたいなものである。世界を支えている主役は成功者(企業家)であり、彼らが充分に報われなければならない、その邪魔をする黒幕共があなたの成功をも阻んでいるという思想(?)である。

 

「(?)」を付けたのは、やはりこれが理知的な言葉で飾られていても本質が身体感覚と信仰が基になっているように思えるからである。トランプが演じているのは、真実を暴いて自由の敵を倒すあなたの仲間である成功者、のイメージである。

 

ブルー・オーシャンとしての大統領選

上の脇坂あゆみさんの現在最新の記事はトランプ現象を理解する上で興味深い。

 

共和党候補がトランプに絞られたのは必然だ | アメリカ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

トランプは長年TVショーの司会をやっている。つまり視聴者はトランプの言動を見続けてどういう人格の人間かよくわかっ(たつもりになっ)ている。いきなり暴言ばかり聞かされる我々外国人とは認識が違うのである。支持者にとってドナルド・トランプとは「口は悪いが面白くて頭が良く、根はいい人」なのだ。

 

トランプは自分の金と知名度は持っているが、自身の組織をもっていない。Youtubeで演説を見ても丁寧に撮られたサンダースの動画とは対照的で、その辺からしてロクなスタッフがいないことが伺える。支援組織も草の根活動もなく、粗雑な空中戦だけでここまで快進撃を続けられるのは長年に渡るTVでの仕込みがあるからである。

 

トランプは、政治家が通常は支持者に苦労して訴えなければいけない人格的な信頼感を最初から得ていた。そして現在のアメリカ社会、特に共和党支持者の間にある不満を見抜いて党を鞍替えし、他の候補者が絶対に出来ないやり方で支持を得た。トランプは手付かずの市場「ブルー・オーシャン」を大統領選に発見していたのである。

 

大統領選ゲームの行方

ドナルド・トランプはアメリカ大統領という重職を選ぶ選挙を、純粋にゲームの攻略として考えているようだ。これは前回の本選挙でミット・ロムニーが、政策論を右から左へ振り回してドヤ顔作って勝った振りをする、というやり方を本格化させたものだ。そんな無定見なロムニーも、トランプに比べればずいぶん真摯な政治家に見える。

 

これまで本職のアメリカ政治アナリスト含め、多くの人々は「『共和党主流派』がそのうち一致団結して陰謀を巡らせ巻き返すに違いない」と考えていた。ところが現状はトランプ支持、消極的クルーズ支持、手遅れになってからケーシック支持、果てはクリントン支持と、てんでばらばらになってしまっている。最初の記事の5ページ目での脇坂さんの言を借りれば、政界には皆が「なにか高尚なすごいものが日常の生活や労働とは別にあると漠然とおもっていた(が、実際はなかった)」ことをトランプは暴いてしまった。

 

このトランプのゲーム攻略はどこまで通用するのだろうか?指名を得た後は本選挙用に華麗な変身を見せるのか。それともこのオリジナル戦法で行けるところまで遊び倒すのか。もし手のひら返して大変身するのならそれはそれで見ものだ。

 

ところで近年はアル・ゴアジョン・ケリージョン・マケインミット・ロムニーといった、かつての大統領候補たちが大物として遇される傾向が以前よりも強くなってきたように感じる。敗者というより、むしろ大統領の地位に近づいた戦歴が評価されているようだ。

 

トランプは今回の選挙戦を力の限りかき回し、その戦歴を後で利用しようとしているのかもしれない。

フリー経済の未来と罠

クリス・アンダーソンの『フリー <無料>からお金を生みだす新戦略』を最近読んで考えた。

 

この本は2009年に出版された本だが、それほど内容は古くなっていない。それはこの本が古今の様々な実例に言及して無料ビジネスの歴史を解説しているからであるが、実は本の中でアンダーソンは明確な解答や予想を示していないので「ハズレ予想」からうまく逃げているせいでもある。

 

無料ビジネスの歴史は安全剃刀を配って替刃を売るビジネスモデルに始まり、民放のCM、そして現在Webによってその範囲を広げつつある。それはデジタルコンテンツの保管費用が限りなく0に近づいていくという性質を持っているからであり、このへんの根拠は同じアンダーソン著の『ロングテール』と共通している。

 

利益を生み出すための限界費用が0に近くなれば、価格を非常に安くすることが可能になる。それならばいっそ小額の売価を付けるのはやめて無料にしてしまい、別の方法で収益を得る方が得策だとアンダーソンは言う。「タダみたいな値段」でも払うと払わないでは心理的障壁が大きく違うからだ。

 

高品質と希少性が生むヒエラルキー

その成功例の一つとして最近の音楽ビジネスが上げられている。従来のようにCDを売る代わりにYoutube等で無料配信したり海賊版を黙認し、ライブで収益を上げるミュージシャンがいる。実は中国の音楽界では海賊版が横行したために最初からこのビジネスモデルになっている。そしてその「海賊版黙認商法」は現在世界の主流になりつつある。

 

(元『爆風スランプ』のドラマーであったファンキー末吉氏はずっと中国で活動しているが、21世紀初頭から中国音楽界の「海賊版が売れれば売れるほど歌手が儲かる」様相を自身のサイトに書いている。そしてその問題点としてレコード会社にやる気がなくなり、創造的環境が生まれないことを指摘している。)

 

これに似たようなモデルとしてはTEDがある。TEDの講演はWeb上で無料で視聴できるが、会場で生で聴くためのチケットは数十万円以上する。TEDの会場に入ることは素晴らしい講演を生で聴くというだけでなく、知的で高収入なイケてる人々の仲間入りをすることでもある。TEDの講演はWeb上で無料公開することでより多くの人々にその価値を広めることに成功している。

 

こうしたタイプのフリービジネスを成功させる要因は何か?と考えるとそれはまず商品自体の質の高さにあると思われる。ネット上でモニターを通じて視聴するだけでは飽き足らない、もっと近づいて直接体験したいと思わせる求心力を「売り物」自体が持っている。そして人間が商品の主体である場合には工業製品とは違ってコピーができない。つまり本の中で言う「希少性」を持つことになる。

 

質が高く希少性を持ったものなら高い値段を付けることができ、なおかつ無料で配って裾野を広げることが同時にできる。これはつまりヒエラルキーを生み出すことになる。このヒエラルキーを生み出せないレベルの商品、希少性のない普通の売り物は地道に価格競争しながら売っていくしかない。

 

このようなビジネスモデルを生み出せる「希少性があって質が高い」商材はそうそこら中にあるものではない。しかしまだどこかに転がっているかもしれない。

 

例えば近年大幅に演奏レベルが向上している全国の地方オーケストラはどうだろう?たとえクラシック音楽にそれほど関心がない人でも、質の高いオーケストラのサウンドはほとんどの人が生で聴くと圧倒される。年間数多く催されるホールでのコンサートを積極的に無料配信していくことで集客の向上が見込めるはずだ。

 

ヒエラルキーの中身

高品質の希少性を持った商材は無料経済に進出することでより収益を上げられる可能性がある。しかしそこに罠はないだろうか?

 

例えば検索エンジンGoogle、通販はAmazon、これらトップ以外がなくなっても困る人は少ない。フリー経済はヒエラルキーの経済であり、トップが求心力を持っているのだが、実はこの「ヒエラルキー」は形がピラミッドなだけでトップと底辺以外の中間がない。あっても構造を成していない。積み上がったピラミッドではなく、ポールと幕と地面によるテントみたいなものなのだ。

 

フリー経済によってヒエラルキーを生み出せるのは一流の商品だけである。人間ならば一流のプロだけが必要で、二流のプロは淘汰される。アンダーソンは、フリー経済はプロとアマの境界をなくすと言う。これは多くのアマチュアがプロの領域に入ることが可能になるということだが、反面プロの下層をアマチュア化するということでもある。つまりは中間層は商品にならないため仕事としては淘汰されてしまう。しかしはたして二流のプロが存在できない世界で一流のプロが生まれるものだろうか?

 

フリー経済は最高のものを普遍化するという、誰にとっても理想的なユートピアを生み出すかもしれない。しかしその代償としてこれまでの遺産を食い潰し、再生産不可能な仕組みを作り上げてしまう可能性も考えられる。

日本人の単一階級意識の源泉

今政府が「一億総活躍社会」という妙なスローガンを掲げているが、少し昔には「一億総中流」という言葉が流行したことがあった。当時子供だった僕は「みんな普通ってことでしょ?」と思っていて、特にこの中流意識が変だとか変わっているとは感じていなかった記憶がある。特に70~80年代に新興住宅地で暮らしていると日本の社会に「階級」や「階層」があるとはイメージしにくい。

 

さらに遡って戦中は「一億玉砕」等「一億~」がよく使われることから、少なくとも戦前には日本人には階級や階層としてはみな同じという意識があったのだろうと予想できる。しかし日本人は鎌倉幕府が開かれてから明治維新までの680年ほどの間を、身分の区別が厳しいはずの封建制で過ごしている。それが明治から昭和までの短期間に階層意識がなくなっていくとはどうしたことだろう?

 

一番簡単な回答は「士農工商といえど人口の大半は農民であり、元から単一階級に近かった」というものである。特に日本の農民は「農村」に住んでいて自分の階層の人間とばかり過ごす。ヨーロッパでは人は基本的に都市に住むため異なる身分の人間との交流も軋轢も区別もある。しかし日本の農民は都市と縁を持つことが少ない。

 

表題の問題はほとんどこれで説明してしまえるが、あえて他の要素を検証してみることにする。日本においては「血統」という意味での「名家」は天皇家しかない。源平藤橘はすべて天皇家との関係によって権威付けられる。天皇と血縁関係がない、フランスで言えばノルマンディ家のような名家は日本には存在しない。

 

血統への信仰はかつて鎌倉時代までは特に濃厚に残っていた(であったからこそ頼朝が挙兵できた)が、それが戦国時代まで来ると動物的な血統より観念的な「家」が重視されるようになる。その理由としては戦国大名の多くがは大した血統を持っていないことにあるのではないか。

 

戦国大名の出自が怪しいのは誰の目にも明らかだ。例えば明治時代に蜂須賀小六の子孫、蜂須賀茂韶侯爵が宮中で待たされ、応接室の煙草を一本失敬したところを明治天皇に見つかって「蜂須賀、先祖は争えんのう」とからかわれた逸話がある。これは蜂須賀家の先祖が盗賊であることが、少なくとも俗説としては広く知れ渡っていた証拠である。

 

そんな馬の骨大名たちが血統で箔をつけようとすれば公家をはじめ天皇家に連なる名家と婚姻を結ぶ他ないが、天皇を頂点とする血統のランキングに入るのは時間がかかる。それに公家は血統だけが取り柄だからそう簡単には血を分けてはくれない。(もちろん家系図の捏造はする。)

 

日本の封建制の特徴は支配層が「武家」であった点である。武家は血統だけの公家とは違い、「働き」によって地位を得る。「働き」にはそれを認める存在が必要である。鎌倉時代には武家は棟梁である将軍家や執権家に忠誠を尽くした。足利時代には武家の棟梁は全武家の忠誠心を受ける存在ではなくなり、戦国から江戸時代では大名個人を経て藩の「お家」という形而上的存在に忠誠心が集まることになる。

 

実力でのし上がった大名たちの箔付けに血統を使うのは限界がある。「お家」の概念は出自の怪しい戦国覇者たち、の子孫が身分を安定させるためにも必要であったのだろう。この生身の人間から離れた「お家大事」は日本的なパブリックの精神を生む。藩の構成員は大名個人ではなくお家という公共の存在のために働くことになる。

 

明治の廃藩置県が可能だったのも藩がすでに大名個人の肉体から離れた公共の組織だったせいである。これは室町幕府守護大名が戦国時代に滅ぼされる際に、自分の血統権威を守ろうとして実にしつこく領土や自身にしがみつくのとは対照的だ。

 

日本人の一階級意識は実はかなり前、封建時代中期ごろからの伝統と言える。逆説的だがそれを可能にしたのは天皇だけが持つ血統の権威の力である。血統の権威が天皇だけに集中していたために、日本の社会は形の上では封建制のままヨーロッパとは違う独自の順序で近代化への準備を完了することができたのである。

安倍政権の戦略は支持率が全て

第二次安倍晋三政権というのは過去存在した日本の政権の中では特異性が際立っている。集団的自衛権に代表される自衛隊の国軍化や戦前価値観の復活はもちろんだが、そういった政策の方向性は一旦脇に置いて、ここでは「戦略」の特異性を取り上げたい。

 
歴代首相との違い

元来日本の政治家というのはとにかく野卑なものだった。そうでなくては大衆(政治家含む)の心を掴んでトップに登りつめることなどできなかったからである。建前より本音。これは同族社会である日本社会が持つ習性であり、政治家の世界もまた例外ではなかった。

 

そこに変化が起こるのはまず橋本龍太郎(1996-1998)である。この人は風采が良く、業績もそれなりに残した人である。細川→羽田→村山と非自民内閣が続いた後ということもあってか、以前の宮澤喜一まで続いた自民首相達とは一線を隠す「大衆へのアピール力」を持っていた。

参考:内閣総理大臣の一覧 - Wikipedia

 

橋龍の風采の良さと洒落になる程度に脇の甘い言動は大いに人気を博した。次に続く小渕恵三は苦戦するかに思われたが真逆のキャラで意外に、というか前任者以上に実のある実績(=保守的政策の成立)を残すことになる。

 

その後史上最低の支持率を記録して短命に終わった森喜朗の後を継いだのが小泉純一郎だが、この人は歴代首相とかなり異なる登場の仕方をする。密室禅譲が常態であった自民党総裁選に、大衆の人気と一般党員の圧倒的支持を受けて当選するのである。派閥に頼らず広範な支持を背景にした小泉政権は、派閥の力学からも自由になった。

 

その小泉純一郎は人格の裏表を感じさせない率直な言葉が魅力であった。その後小泉政権時代の「改革」の成果が明らかになるにつれてその清新なイメージも色褪せていくが、この人は(本来政治家の仕事である)「言葉の力」を日本の政治に持ち込んだエポックメイキングな政治家であった。

 

美辞麗句

そして現在の安倍晋三である。この人はとにかく言葉が美しい。下品なヤジなどが話題となった現在ではやや違和感がある評価かもしれないが、コメントを常に美しい言葉で締めるというのはこれまでの政治家にはなかったことである。

 

小泉純一郎は首相時代、閣僚に「失言するな」と厳命していたらしいが、この時代に安倍晋三はこの手法を学んで自分なりに昇華したのであろう。表向きには率直(=粗野・下品)な「本音の言葉」を人気取りに使わず、美しく普遍的な言葉でまとめる。これは政治家としての本質はともかく、能力としては評価されるべきである。

 

支持率コンシャス

その安倍晋三は第一次政権が失敗に終わった後、「みんながやりたいことと自分がやりたいことが違っていた」という趣旨の発言をしている。この反省に立った第二次安倍政権ではまず「みんなのやりたいこと」を叶える、それによって「支持率」を得て「自分のやりたいこと」を実現させるという戦略を取っている。

 

これは企業であればまことに正しい経営理念であろう。実際のところ保守的な思想の持ち主には企業戦略と国家の採るべき政策を混同している人が多いように感じられるが、それはさておき、この「みんなのやりたいこと」とは何か。それは経済政策である。つまりアベノミクスだ。

 

どんな高邁な理想を掲げた政権も経済政策で失敗すれば終わりである。経済とは金持ちが右から左へ動かす金のことだけではなく、全ての人々の生活に関わるからだ。第二次安倍政権はまず経済政策を美辞麗句で固めたアベノミクスでスタートする。三本の矢というやつだが、重点はまず第一の金融緩和である。前の民主党政権はとにかく経済というものが分かっておらず、やみくもに停滞させてしまっていたその空隙を突いた。

 

「黒田バズーカ」と称される「異次元緩和」を当の黒田総裁が止めようとする段になっても撃ち続ける。これは経済政策の目的が経済の再生そのものではなく、景況感の演出であるからである。続く第二第三の矢も言葉の高揚感や期待感が重視されている。

 

「支持率」とはつまるところ「期待感」の言い換えである。就任当時のオバマや小泉の驚異的な支持率も期待感が起こした数字である。これを一定期間以上維持するというのは何大抵ではない。期待感の底が割れないように次から次へと花火のように華々しく、かつあいまいな政策を打ち上げていかなくてはいけない。生真面目な政治家にはこれはできないだろう。事実歴史上高い支持率を得た政治家に謹厳実直な人はあまりいない。

 

敵を作る=味方を作る

経済性政策で「みんなのやりたいこと」を実現する(ように見せる)のは良い(?)として、安倍晋三の「自分のやりたいこと」とは何か。それは戦前の価値観の復活である。日本の教育は「自我を確立する」よりは同調を求める傾向があり、これが自我の境目があいまいな人間を作り出す。そうした人々は自分と国家を同一視しやすく、「昔の日本は悪かった、んじゃなくてむしろ良かった」という単純なパラダイム変換に惹きつけられやすい。

 

戦前の価値観、つまり国家主義を復活させるためには個人の主張を封殺するためにののっぴきならない事情、対外的な脅威が必要である。幸い(?)韓国というのは思い切り挑発に乗りやすい国であるので、「美辞麗句」でつつくだけで簡単に緊張関係を演出してくれた。とはいえ韓国はアメリカと同盟関係にある小国でしかない。中国という対岸の巨大な存在が「脅威」の本元であり、この認識が政権支持者の論拠ともなっている。

 

日本の政治の変化

以前麻生太郎が「ナチスの手法に学んではどうか」と言って問題になった。この「ナチスの手法」は認識が間違っている(「誰も気づかないうちに憲法が改正された」と言ったが実際は暴力的手段で大騒動のうちに停止された)上に実際学んでしまっている(憲法無視の法案成立は全権委任法に通じる)点が更に問題だが、言葉を美しくまとめるのは政治の戦いを優位に進めるにあたって大切なことである。この手法は対抗勢力も学ぶべきだろう。

 

現在は安保法制反対デモが盛り上がっているが、SEALDsに代表される若者中心の政治活動は見た目や言葉に気を使っている点が、従来のひたすらエネルギーをぶつける反政府デモとは大きく異る。日本の政治家や政治活動家は、人々に好感を得なければ支持が集まらないというごく当たり前の事実に気づき始めたのだろう。

余談として:遊牧民族と狩猟民族

これは過去記事の牧畜民族という観点から西洋人を理解する農耕民族と言う観点から日本人を理解するの補足である。

 

日本とヨーロッパは遠く隔たっているにもかかわらず古代―中世―近代とよく似た発展段階を経て いる。これには他の状況的な共通点もあるが(大きな先進文明が「少し離れた近く」にあることなど)、基本的に「狭い農業文明(農村から発展した広域社会)」であったという共通点があ る。では他の文化についてはどうか。

 

まず遊牧民族について。「遊牧」とは人類の歴史上新しい生活形態である。これによって 人類は草しか生えない広大な乾燥地帯を征服することに成功した。遊牧民の生活は基本的に「戦闘態勢」であるために個々に高い戦闘力を持つ。その戦闘力は主に対抗する人間に向けられたものであるため、「人を殺す」ことについての禁忌は農業民のように厳しくはない。しかしそれだけにお互いの戦闘力によって抑止力が生ずる。遊牧民もまた農業民と同じく集団を作らなければ生きて 行けず、フェアな協定と力関係のバランスが社会の秩序になる。

 

そして狩猟民族について。狩猟民は基本的に小さな集団で生活 する。自然の生産力に頼るため大きな集団は維持しがたいためである。そして遊牧民と同じくやはり個々に戦闘力を持つ。遊牧民と同じく殺人の禁忌は厳しくは ないが、基本的に一人で生きていける狩猟民は「いやな相手」と付き合う必要は少ない。なので社会の軋轢を受け入れる秩序はそれほど必要としないと考えられ る。

 

遊牧民族や狩猟民族には先祖を動物とする伝承をもつものがある。狩猟とは牧畜と違って一方的な殺戮ではない。人間と動物 による力と知恵の対等な勝負であり、それゆえ「強い相手」に対する畏敬の念も生まれる。遊牧民もまた相手が人間ではあるが「力の勝負」をする民族であるた めに、ことさら人間と動物の論理的区別を必要としなかったのだろう。

 

文化とは突き詰めれば食料をどうやって得るか?ということだが、世界を見渡せば以外に純粋なものは少なく多くの地域で交錯している。半猟半農、牧畜と遊牧の中間などハイブリッドな文明は数多い。その中で植物だけを相手にする農耕と、いくばくかの漁業で成り立つ日本の文化はこれだけの規模としては特殊といえる。日本の農業と漁業はハイブリッドではなく完全に分離しており、それぞれ文化も異なる。例えば漁村地域では伝統的に「敬語」が存在しないというように。

 

異文化を理解することは自分の文化を理解することでもある。

18歳成人論:18歳からは「何もかも大人」であるべき(だが)

選挙権を18歳から持てるようになった。この政策についての政治的な思惑はさておき、ここではまず「18歳成人論」を唱えることにする。

 

参考:

18歳を「成人年齢」にして大丈夫か? | 冷泉彰彦 | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

 

特に18歳という年齢にこだわるわけではない。ここで主張するのは「成人とみなされる要素はそろえるべき」ということである。

 

かつて日本の「元服」は15歳であった。この元服とは「昨日まで子供、今日から大人」となる儀式である。この儀式には特別な「通過儀礼」を持つ民族もあり、バンジージャンプもその一つである。

 

この「成人の儀式」に必要なことは、昨日までは不自由ながらも守られた身だったが、今日からはすべて自由になる代わりに容赦ない責任を負う、という急激な身分の変化である。この変化の緊張感が社会を構成する一員になるという自覚を促す。昔の日本の場合はまず髪型が変わる。武家なら名前と服装が変わり、農民以下は早々と婚姻が準備され社会への取り込みが進められる。昨日まで坊や扱いが突然扱いが一変するのだから本人の意識も否応なく急変する。

 

現代日本はこの点で完全に混乱をきたしていると言わざるを得ない。まず成人は20歳と定められている。酒・煙草・選挙権等は20歳で解禁になる。18歳で解禁なのは男性の結婚、パチンコアダルトコンテンツ(共に高校生不可)。女性の結婚は16歳からである。

 

この「解禁年齢」のズレは長らく日本人に成人になることへの確固たる覚悟を阻んでいる。最近では下火になったが、成人式で暴れる連中は明らかに「成人」の意味、守られる身分から落ち度があれば容赦なく責任を負う身分への変化を理解していない。また女性の16歳の婚姻年齢は結婚が自由になる年齢、では決してなく、どちらかと言えば「結婚をさせられる」年齢である。この制度が形式上とはいえ現在でも残っているのは驚愕に値する。

 

一方で少年法の適応は年々下へ下へ引き下げられようとしている。凶悪犯罪へのペナルティ、危険な犯罪者を隔離したい心情が年齢に関係なく犯罪者への不寛容となって表れている。(「少年犯罪の凶悪化」については反証するデータや論評が数多くある)

 

人間は間違を犯す。子供と成人の違いは、その責任を親が負うのか本人が負うのかと言う違いである。本人に負わせるべき責任年齢を下げることがはたして少年犯罪抑止に役立つのか?「少年」の犯罪者に対して必要なのは徹底した教育であり、これは言い換えれば「自分の作り直し」の強制でもある。当人にとっては単に刑務所に放り込まれる大人の受刑者よりも過酷である場合もある。

 

日本の刑罰とそれを支える風潮には「因果応報」の思想が濃く、それ自体は間違いではないが、度を超えると肝心の犯罪の抑止という社会的合理性が失われる。少年法はあくまで正式な成人年齢を超えて引き下げられるべきではない。

 

重要なのは18歳を境に未成年から成年に全てがガラリと変わることで、そのためにも法的に成人は18歳からと正式に制定する必要がある。被選挙権も18歳からでよい。「大人」である18歳の候補が議員にふさわしいか決めるのは有権者である。

 

ここで問題になってくるのは高校生の内に成年と未成年が混在するという現状である。これに対しては「18歳の誕生日を迎えた後の4月1日を持って成人」ということでよい。つまり厳密な年齢より学年準拠ということである。人によっては1年近くの「年齢差」が生じることになるが、そもそもその年齢までずっと学年で分けられて育っているのだからなんの問題もないはずだ。急に厳密な年齢で分けられる方がよほど不自然である。

 

しかしここへきてなぜか「18歳から酒・煙草も解禁」という論が自民党から出てきた。思うにこれはこの稿で主張している「成人年齢は揃えるべき」という趣旨ではないような気がする。その思惑はさておき、酒・煙草については「自己責任」だとかいう話からは切り離して国民の健康という観点から考えるべきだろう。

 

特に煙草の依存性の強さは吸い始める時期に大きく左右される。10代から始めた人が止めるのはなかなか大変だ。(ちなみに僕の場合は30歳から始めたので吸うのも止めるのも自在である。)

 依存性の程度や働きが異なる酒と煙草を同列に扱うのも疑問がある。煙草については25歳くらいを解禁とするのが妥当だろう。この規制は国としての「サービス」で、安易な自己責任論などよりよほど有意義だ。

 

成人年齢とそれに付随する権利と責任の発生は18歳後の4月1日に全て統一することをここで提案する。そして健康に関わる嗜好物の解禁はこの問題から切り離す。高校卒業した(年齢になった)ら大人として扱うということだ。それによって日本の社会はかつての成人儀礼の意味を復活させ、モラトリアム社会から卒業すべきである。

マーケティング仮説:消費者は徐々に「賢明化」する

企業にとってマーケティングで市場の変化を敏感にとらえることは大切だ。しかしそれが簡単ではないことは、名だたる大企業がたびたび変化の流れを読み間違えて失敗していることからもわかる。市場の変化自体は売れ行きにそのまま表れるはずなのだが、重その変化が一時的な変化なのか、それとも長期的なトレンドなのかという点を判断するのは難しい。

この点を読み間違えると単なる一時的なゆれに対して過剰な設備投資をしてしまったり、逆に商機を逃して市場を競合に奪われるということが起こる。これに対する判断基準としてひとつの指標というものはないものか。そこで「顧客の消費行動は徐々に賢明になる」という仮説を唱えてみる。

 

2012年頃の経済紙の特集にはもっぱら「アベノミクスで消費増」という文字が躍っていた。景況感の中で少し余裕の出てきた消費者は「ちょい高消費」など日常の生活の中で少し奮発した贅沢を楽しむようになっていた。その後消費税増税による駆け込み需要、その反動による消費の落ち込みと続く。そして予想された次の段階は反動減が終わって消費が回復することだった。しかし「反動減」が終わってもそのまた反動による消費回復はなかなか起こらない。これは一時の「ゆれ」とは違う長期的な変化、人々の消費行動そのものが変化したためだ。

 

人が消費行動を変えるときには何かのきっかけがいる。収入が減るなり大きな支出の必要性が生まれれば他の支出を減らす。その際にそれまで自覚していなかった無駄に気付くことになる。「このくらい払うのが当たり前」と思っていた支出が実は必要ではなかった、などという気づき。特にここ20年は「なんだこんなに払わなくてもよかったんだ」という変化の連続であった。

 

こういう変化には何かのきっかけが必要である。変化しない社会では消費活動の変化はなかなか起こらない。日本はずっとデフレだ(いまだ過去形にはできないが)が、そもそも現代文明は経済成長を前提としており、景気がずっと後退し続けるのは異常事態である。その中では価格破壊という名のイノベーションが起こる。例えば100円均一ショップの出現は日本人に「必ずしもちゃんとした製品でなくても間に合わせの安物で充分な場合がある」ということを教えた。

 

こうした変化の中でも法改正などは全体に大きな影響を与える。消費税増税によって全般的な値上がりを感じた消費者は細かな支出を見直す。さらにそれまでの「ちょい高消費」によって「良いもの」の価値を知ったため、必要でない支出を減らして自分がより望むものに支出を傾けるようになる。こうして数々のきっかけを経て人々の消費行動は賢明になっていく。

 

このように消費行動の変化は外的要因によって引き起こされる。簡単に言えば「値段の変化」である。昔から値付けの変わらないものに対しては人は値段に疑念を抱かず、価格はブラックボックス化するが、そこに「価格破壊」が起これば顧客は値付けの根拠を問い直すことになる。

 

この点から見て大きく失敗したと言えるのが現在苦境に陥っているマクドナルドである。同社は大きく値下げをして買い得感をアピールした後、少しづつ値上げして利益を上げようとする戦略をとってきた。ここにはまず大きな見落としがある。一つ目はかつて低価格に惹かれた顧客が、その後の少しの値上げに気付かないであろうという甘い見立てである。同じ人間でも安い物を買う時と高い物を買う時では値段の変化に対するセンシビリティは大きく異なる。まして低価格戦略を打ち出す際のターゲット層は特に値段の差に敏感であるはずである。

 

そしてこのような値付けの変化、さらに地域別価格の導入は顧客に価格設定の根拠に対する疑念を抱かせる。こうした価格戦略は経営として合理的な発想から生まれたものであるが、顧客を合理的に攻略しようとすれば顧客もまたそれに合理的に対抗してくる。

 

外食産業では原価率の高いメニューで客を集め、原価率の低いサイドメニューで利益を上げようとする戦略はごく普通に行われている。しかしマクドナルドはむやみな価格の変化によって「顧客の賢明化」を自ら引き起こし、自社の利益を圧迫するよう仕向けてしまったのである。

 

この「顧客の賢明化」という変化を一般的なマーケティングに生かすためにはどうすればよいか。もし原価率と商品の売れ行きに明らかな相関があるときには顧客は企業に余計な利益を与えたがってはいないと判断できる。ここで必要なのは「原価率の低い売れ筋商品」をひねりだしてさらに顧客の裏をかこうとすることではなく、まず価格の適正化に取り組むことである。

 

また急に人気になった製品があったとし、それが本来の価値と乖離しているような場合はそのムーブメントは長くは続かないことが予想される。その他にも税制改革や景気などの大きな変化の際には顧客の消費行動が賢明化することを念頭に置くとよい。もし顧客の賢明化が十分に起こっている場合は「適正な品質と価格」を訴えることによって市場で優位に立てる可能性があるのである。

 

現在東京には「原価バー」なる居酒屋チェーン店が存在する。一定の「入店料」を支払うと酒や食事メニューが「原価」で提供されるというシステムである。この入店料も立地によって変化する。いわば究極の明朗会計である。

 

原価バーは少々時代を先取りしすぎているかもしれないが、全体としては外食産業は徐々にこの方向に進むのではないかと思われる。客の足元を見て気付かないとこから出来るだけふんだくろうという戦略はもう古い。消費者の選択はどんどシビアになっていくわけだが、実はこれは供給側にとっても悪いことばかりではない。不当廉売のような「力押し」が通じなくなり、まっとうな商売が評価されるようになるからである。

 

この「顧客の賢明化」という仮説は少々進歩思想的、楽観的に過ぎるかもしれないが、時代の大きな流れとして念頭に置いておけばマーケティング戦略をそう大きく誤ることは少なくなるのではないかと思う。