使えない捕鯨擁護論

捕鯨問題というのは不思議だ。単なる海産物の漁獲管理の話なのにやけにエモーショナルな議論が絡んでくる。

 

日本ではだいたい全員が捕鯨擁護の立場であって、それだけに欧米の反捕鯨は理解しがたく思える。この問題に関して「こちら側」に立って「あちら側」を非難するのは簡単だ。しかし本気で捕鯨再開を実現しようと思ったら「あちら側」を説得していかなければならない。その観点から見て、まず日本でよく唱えられる「こちら側」の主張の問題点を挙げていきたい。

 

・捕鯨は文化だ

→「文化」というのは免罪符にはならない。いくら伝統があっても悪い風習はやめさせなければならない。

 

・日本は獲ったクジラを隅から隅まで活用してきたが、西洋は油取っただけだ

→反捕鯨国「だからなに?今はやってないんだけど」

→ノルウェー&アイスランド「あの~、うちらも同罪ってこと?」

共闘すべき数少ない仲間と決別してどうする。

 

・日本は供養塔とか建ててクジラを大切にしてきたんだ

→「かわいそうなら殺すなよ」

 

・反捕鯨論は人種差別だ!

→「違います」と言われて終わり。

 

・クジラを獲らないから魚が減った

→捕鯨の対象は主に魚を食うクジラよりもヒゲクジラである。ヒゲクジラの餌は主にオキアミでだ。ヒゲクジラが増えすぎたためにオキアミが減って魚が減ったいう理論は成り立つが、実際にはオキアミの発生には複雑な要因が絡んでいる。→ナンキョクオキアミ - Wikipedia

 

あと「魚が減った」というのは実は日本の問題でもある。漁獲管理がなされている国では魚はむしろ増えているからだ。この問題に関してはこちらを参考にされたい。

勝川俊雄 公式サイト

【さかなTV】第4回 勝川俊雄さんに聞いてみよう! - YouTube

とにかく水産資源管理に関しては日本はあまり大きな事は言えない。

 

日本の捕鯨擁護論は単なる反・反捕鯨論に陥りがちだ。多くの場合外国からいちゃもんつけられてムカツクー!といううっぷんばらしに過ぎない。しかし本気で捕鯨を再開したければ、日本人の感覚だけで通じる理屈を国内で回していても道は開けまい。主な反捕鯨国である欧米の論理を理解して理性的に論破していく道を探さなければならない。

その意味でいつまでも獲りっぱなし漁業時代を引きずっている漁業政策は早く改めないといけない。自国の資源管理がまるでなっていないのに「獲らせろー!」と言っても危険人物扱いされるのがおちである。

 

もちろん上に挙げたような感情的で内向きな捕鯨擁護論は巷で一般の人間が話すような内容であって、これが国際会議の場で使われているとは思わない。しかし国民的意識として「これがあたりまえなのに通じないのはおかしい。あいつらばか」とみんな思っているようでは捕鯨再開の道は遠いだろう。

 

もうひとつ、捕鯨擁護論がドメスティックな感情論に堕してしまう原因は、実はみんなそんなに本気でクジラ食いたい訳じゃないんじゃないか?というところにある気がする。僕は1970年生まれだから給食でクジラの竜田揚げを食った世代である。あれはたしかにうまかった。また食いたい。しかし肉を竜田揚げにしてケチャップであえれば、別に鯨肉じゃなくても子供が喜ぶおかずになりそうである。

 

一度家で母親が分厚いクジラのステーキを焼いてくれたことがあった。鯨肉を食べたことのない人に説明すると、その味は「魚臭い牛肉」である。牛肉よりも繊維がだいぶ太くて柔らかく、ほぼ全部赤身。「竜田揚げのケチャップあえ」にすれば魚臭さは消せそうだ。

当時肉というのは高いものだった。給食にゴロンゴロンと肉のかたまりが出てくるのは安い鯨肉以外ではありえなかった。クジラの味の記憶は、実は肉のかたまりの御馳走の記憶ではないのか。

 

すでに遠く隔たったクジラの味に思いを馳せたり、食えるところで大枚はたいたりするよりも、日本の漁業にはもっと差し迫った問題がある。サバやマグロ、そしてウナギの問題である。こちらの方がよほど毎日の食の問題として、また「文化」として重要である。まずは自国の漁業管理の問題をなんとかすべきであるし、その先に捕鯨再開の道も説得力を持って見えてくるのではないか。

 

欧米のエモーショナルな反捕鯨論については、また稿を改めて考察してみたい。

民主主義の手続きで民主主義を放棄することはありえるか

以前知人がFacebook上でアエラ7月22日号に掲載された対談での東浩紀の発言についてコメントしていた。発言はごくおおざっぱに言えば、民主主義なのだから国民がもし天皇親政を求めたらこれを認めなければいけない、というようなものだった。国民全体にも愚行権を認めよということか。発言の意図はまた別にあるようだし、そもそも僕はこの記事を読んでいないので東浩紀自体に大してどうこう言うわけではないのだが、これを読んでからしばらく表題の問題について考えていた。民主主義の手続きで民主主義を放棄することはありえるか?

 

この「ありえる」というのを「可能性」という意味で考えるのなら十分ありえる。というか民主的投票で独裁体制を選ぶなんていうのは原始以来繰り返されてきたことで、単なる民主主義の失敗例だ。それをなんで現代の知識人が昨日今日思いついたように言っているのかという疑問はある。それくらい日本人の敗戦に対する情念は深いのだ、ということらしいが、まあなにせ読んでいないのでその点は割愛する。

もうひとつ「ありえる」という言葉、を正しいかどうか、許されるかという意味で考えるのが今回の主題である。民主的手続き、つまり国民投票で王政を選択するという事は論理的には正しいような気がする。しかし改めて前提を考え直してみる必要があると思う。民主制そのものは他と取捨選択可能な制度なのか?

 

人間は集団で生きている。一番大切なことはその集団の構成員の生存である。集団が生き延びるためにはなるべく優れた者をリーダーとして選ぶ必要がある。それは構成員個々の自分の都合でもある。大きな集団になるとリーダーにも強い権力を持たせる必要がある。強い権力を持ったリーダーはより「自分の都合」を強く押し出せるようになる。そして(能力とは関係なく)愛する我が子にその跡を継がせるようになる。これが王政である。

 

王政というのは、「王権神授説」だの色々と理屈は付けられるが、しょせんは「王の都合」で成り立っているに過ぎない。それを打破して成立した民主制は「我々の都合」で成り立っている。「我々」とは誰か?それは僕でありあなたであり可愛いあの子であり憎いあんちきしょうである。

 

民主主義を否定する人、というのがもし存在するならば、その人は「我々」の一員でありながら「我々の都合」を侵害しようとする人である。現代社会では「他人の自由を侵害する自由」や「自分の人権を放棄する権利」は認められていない。古代にはそのようなものはあったが、現代社会はそれらを否定して成立している。それはなぜか?我々全員の生存のためである。

 

この意味で日本のような実質的立憲君主制国家を含む民主体制下の君主たちは尊重される必要がある。彼らは常に讃えられ、存在そのものを感謝されているが、それだけの理由がある。なぜなら彼らは完全に国民の都合のためだけに存在しているからだ。

 

そのような立憲君主賛美とは全く異なる「民主主義否定論者」は、我々の都合を侵害しようとする敵であるからこれと戦って排除しなければならない。もし失敗すればそれは「我々」の敗北となる。民主主義否定論者は自分の権利も放棄するのだから良いだろうと言うかもしれない。しかし殺人犯は自殺しても許されるわけではないし、テロリストは自爆するなら仕方ないと思われることもないし、盗った物を寄付するからという理由で窃盗が許されるはずはない。

もちろん非民主主義体制下で混乱を避けるために民主化を急にではなく、漸進的に行うことはありえる。しかしすでに民主主義下にあって民主主義を否定するのは社会の構成員全員に対する反逆である。

 

生まれた子を気に入らないからという理由で養育放棄することはできないように、、民主主義体制に生まれた我々は民主主義を守る義務がある。民主主義の手続きで民主主義を放棄することは、ありえないのである。