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民主主義の手続きで民主主義を放棄することはありえるか

以前知人がFacebook上でアエラ7月22日号に掲載された対談での東浩紀の発言についてコメントしていた。発言はごくおおざっぱに言えば、民主主義なのだから国民がもし天皇親政を求めたらこれを認めなければいけない、というようなものだった。国民全体にも愚行権を認めよということか。発言の意図はまた別にあるようだし、そもそも僕はこの記事を読んでいないので東浩紀自体に大してどうこう言うわけではないのだが、これを読んでからしばらく表題の問題について考えていた。民主主義の手続きで民主主義を放棄することはありえるか?

 

この「ありえる」というのを「可能性」という意味で考えるのなら十分ありえる。というか民主的投票で独裁体制を選ぶなんていうのは原始以来繰り返されてきたことで、単なる民主主義の失敗例だ。それをなんで現代の知識人が昨日今日思いついたように言っているのかという疑問はある。それくらい日本人の敗戦に対する情念は深いのだ、ということらしいが、まあなにせ読んでいないのでその点は割愛する。

もうひとつ「ありえる」という言葉、を正しいかどうか、許されるかという意味で考えるのが今回の主題である。民主的手続き、つまり国民投票で王政を選択するという事は論理的には正しいような気がする。しかし改めて前提を考え直してみる必要があると思う。民主制そのものは他と取捨選択可能な制度なのか?

 

人間は集団で生きている。一番大切なことはその集団の構成員の生存である。集団が生き延びるためにはなるべく優れた者をリーダーとして選ぶ必要がある。それは構成員個々の自分の都合でもある。大きな集団になるとリーダーにも強い権力を持たせる必要がある。強い権力を持ったリーダーはより「自分の都合」を強く押し出せるようになる。そして(能力とは関係なく)愛する我が子にその跡を継がせるようになる。これが王政である。

 

王政というのは、「王権神授説」だの色々と理屈は付けられるが、しょせんは「王の都合」で成り立っているに過ぎない。それを打破して成立した民主制は「我々の都合」で成り立っている。「我々」とは誰か?それは僕でありあなたであり可愛いあの子であり憎いあんちきしょうである。

 

民主主義を否定する人、というのがもし存在するならば、その人は「我々」の一員でありながら「我々の都合」を侵害しようとする人である。現代社会では「他人の自由を侵害する自由」や「自分の人権を放棄する権利」は認められていない。古代にはそのようなものはあったが、現代社会はそれらを否定して成立している。それはなぜか?我々全員の生存のためである。

 

この意味で日本のような実質的立憲君主制国家を含む民主体制下の君主たちは尊重される必要がある。彼らは常に讃えられ、存在そのものを感謝されているが、それだけの理由がある。なぜなら彼らは完全に国民の都合のためだけに存在しているからだ。

 

そのような立憲君主賛美とは全く異なる「民主主義否定論者」は、我々の都合を侵害しようとする敵であるからこれと戦って排除しなければならない。もし失敗すればそれは「我々」の敗北となる。民主主義否定論者は自分の権利も放棄するのだから良いだろうと言うかもしれない。しかし殺人犯は自殺しても許されるわけではないし、テロリストは自爆するなら仕方ないと思われることもないし、盗った物を寄付するからという理由で窃盗が許されるはずはない。

もちろん非民主主義体制下で混乱を避けるために民主化を急にではなく、漸進的に行うことはありえる。しかしすでに民主主義下にあって民主主義を否定するのは社会の構成員全員に対する反逆である。

 

生まれた子を気に入らないからという理由で養育放棄することはできないように、、民主主義体制に生まれた我々は民主主義を守る義務がある。民主主義の手続きで民主主義を放棄することは、ありえないのである。