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ナショナリズムは欲望の一種である

椎名林檎による、サッカーW杯のNHK中継のテーマソングが一部で右翼的として取りざたされているようだ。

椎名林檎のNHKサッカーテーマ曲、その“右翼ごっこ”より問題なこと

 

たしかに最初に「にっぽん」というタイトルで「世界で一番なんとかかんとか」という歌詞を聞いた時は、そりゃちょっといかがなものか?と思ったが、後に続くのは「混じり気の無い気高い青」ということでまあ歌詞としては成立している。そのものずばりの言葉を放り込むのが芸風の林檎さんにしては、ちゃんと公式に使えるように上手くまとめた方ではないだろうか。

 

曲はキャッチーでよくできている。今時チアホーンの音を入れるアレンジはどうかと思うが・・・。正直言って個人的には中継のたびに同じ曲を聴かされるのは、少々よくできた曲でも勘弁して欲しいのだが、この点についてはもはやいくら文句を言っても無駄だろう。

 

ナショナリズムは欲望の一種

で、いきなり表題の結論に移りたいのだが、ナショナリズムというのは「祖国愛」とか「危険思想」とかではなくて一種の普遍的な欲望であるということである。本能と言っても良いかもしれない。欲望や本能であるからには食欲や性欲と同じく誰でも持っている。自然な欲求と並べるのが変なら権力欲や認知欲求と並べてもいい。

 

ナショナリズムというのは自分の外に広がった自我である。対象は国とは限らず、範囲の大きさは様々だ。一見すると愛が他者に向けられているように見えるが、範囲は一定の所に限定されている。そしてその外側に対しては無関心、あるいは敵対・競争の意識が生まれる。つまりこれは自分の属するチームへの帰属意識である。誰でも持っている感覚であり、完全にこれなしで生きていくというのはかなり独立独歩の人であっても少々難しい。

 

たしかに褒められるようなものではないが、かといって持っているからといってけなされるようなものではない。だが度が過ぎれば問題なのは他の欲望と同じである。 現代は欲望を肯定する時代である。しかし古代のような欲望むき出しで強い者勝ちというわけにはいかない。現代では欲望は持ちつつも社会的にも個々にも制御すべきものである。ナショナリズムを欲望として自分の国を讃え、スポーツで相手の国を倒して喜ぶというところに収まればなにも問題ない。その意味で上記の記事の人は少々心配が過ぎると言える。

 

日本の社会の責任意識

さてなぜこのように日本ではナショナリズムが劇薬として忌み嫌われたり、逆に諸手を挙げて喜ばれたりするのか?それには日本の社会が今だ切腹文化から抜けきっていないことに原因がある。日本では誰かに責任を取らせる時、「詰め腹」を斬らせる。そこでは原因の究明と対策がおろそかになる。また責任を取らされる者には抗弁が許されない。日本のトップが責任から逃げまわるのは切腹から逃げているのである。

 

こうした事態は原発問題にも見られる。全国の原発の中で福島級の災害に耐えられるのはどこか?そういった問題に該当する調査があるはずだが、そんなことより当時の首相の振る舞いの方に関心が集まる。そちらの方がまず大事だと思う人はよく考えてもらいたい。

首相に詰め腹を斬らせると言っても、もちろん現代では命で贖ってもらうわけではないから、単に非難して辞任させるだけだ。それでは当然収まらないからその「跡地」に責任を求めることになる。責任を求める対象は今度は原発そのものになる。つまり原発に責任は「あるのか」「ないのか」が論点となる。

だから現在の原発論は推進か廃止しかない。その間の解決策の模索、「徹底的に情報を公開し、原子力産業の体質を変えて存続を訴える」という方向には行かない。推進派は無罪放免を勝ち取ってすべて元通りにしたがっている。「原発が悪い」か「原発は悪くない」かの二者択一になってしまうのである。

 

戦後日本が憲法九条を墨守してきたのは戦争を引き起こした責任を「軍備」に押しつけたからである。戦犯は文字通り腹を斬らされたので残りの責任追求は「跡地」に向かう。なぜなら個人の死で償えるような被害ではないからだ。そして軍備そのものは悪くないという人は逆の論理に走る。つまり「軍備は良い」、そして戦争は正しかったということになる。

 

この問題はアメリカの中絶問題に結果的にちょっと似ている。アメリカでは中絶を容認するか反対するかで大統領選が左右される。人工中絶というのは多くの人にとって「不幸な出来事であり、できるだけ避けなければならないが、時には仕方のない事態」であるはずで、アメリカでも多くの良識的な人はそう思っているはずである。しかし堂々たる建前文化であるアメリカでは中絶は「殺人」か「女性の権利」かのどちらかになってしまう。アメリカの建前文化は多くの局面で合理的に働いているが、カバーしきれない盲点の一つが中絶問題なのである。

 

日本の場合、盲点をもたらすのは切腹文化ということになる。しかし責任があるか、ないかで話を終えられたのは江戸時代までの話である。もし個人の死による決着が認められたとしても、現代の問題はではそれで解決できる範囲を超えていることが多い。日本の社会がいい加減この切腹で決着を付ける責任意識から脱却しなければ、原発憲法もいつまで経っても片は付かないだろう。原発は単なるエネルギー、ナショナリズムは単なる欲望である。重要なのは存在を認めた上でコントロールすることだ。

 

椎名林檎の「NIPPON」は、右翼的だと非難するのも、愛国的だと讃えるのも、歌詞にナショナリズム関係ないじゃんとやり過ごすのも、いずれも間違っている。あの曲は許容範囲のナショナリズムによるエンターティメントである。そして僕は「スポーツイベントにいちいちテーマソングを設定するのなんぞやめて欲しい」と一言添えておく。