少子化問題への後ろ向き幻想

かつて世界が心配していたのは人口爆発であった。自然を征服した人類は無限に増え続ける。70年代に「日本の人口は3億で止まる」という未来予測を見たとき非常に安堵したのを覚えている。人口増加はいつかは止まるんだと。正直言って現在の少子化問題はかつての人口爆発の恐怖とは比べものにならない。現代のテロの恐怖が冷戦時代の「ボタン一つで本当に世界が滅ぶ」のと比べものにならないのと同じである。言っておくが「世界が滅ぶ」可能性は冷戦時代では本当に現実の問題だったのだ。

 

ところで最近こういうことを言う人が出た。

「女性は家庭に」産経記事が波紋

 

NHK経営委員の長谷川三千子氏が産経新聞コラムで 「男女共同参画」批判を行ったということである。これはまとめて言うなれば「日本をもう一回発展途上国の状態に戻しましょう。そしてもう一度高度経済成長しましょう。」ということである。どういうことか順を追って説明しよう。そもそもなぜ昔は男女がみな結婚せねばならず男は仕事に、女は家庭にと決まっていたのか?それは家電製品がなかったからである。

 

家電製品がない時代、というのはずいぶん長い。人類の歴史のほとんどを占める。いま僕は朝起きたら湯沸かしポットのスイッチを入れる。そして冷凍庫から6枚切り食パンを一枚取り出しオーブントースターに入れる。日によって冷蔵庫からバナナかヨーグルトを取り出す。

 

これが家電製品のない世界ではどうなるだろう?まず火を起こさないといけない。炊きたての飯と味噌汁はさぞ美味いだろう。今でもある年代以上の人、保温ジャーのない時代に育った人は「暖かい飯」にこだわる。

 

炊飯が大変なのは予想できる。掃除は掃除機がほうきと雑巾に代わる。これはまだいい。問題は洗濯である。実家に二槽式の洗濯機があるが、あれは「全手動」洗濯機であると以前使ってみたときに思った。つきっきりでなければいけない機械であり、とうてい一人暮らしでは使えない。家電なしだとさらに洗う作業まで手動になる。冬もだ。

 

この結果家電なしの世界では誰かが一日中家事を担当せねばならなくなる。以前「鬼平犯課帳」を読んでいたときに、「年に五両の安月給」の独身下っ端同心が使用人を2人雇っていることが不思議だった。実は家電なしの文明世界では家事を担当する人間がいなければ文明人として生活することは不可能なのだ。実際江戸時代の独身男というのは、人を雇うか、金があって遊郭の世話になったりするか、着の身着のまま野人のように暮らすかのどれかである。

 

つまり家電のない時代は男も女も結婚せず一人で生活することは不可能だったのである。この時代では仕事というのは力仕事であって男がやった方がいい。そして女は一日中家事に追われ、男女が一緒に暮らすことによって必然的に子が生まれる。そして子育ては家事と同時に行われる。これは長い間人類社会の合理的な仕組みであった。しかしその状況は現代ではもう変化してしまっている。

 

かつて結婚しない男というのは社会の外れ者であり、結婚しない女は無用物であった。結婚しなければ生きていけないのにそれをしないのだから当然である。年頃過ぎればそれこそ好きの嫌いの言ってられらなかったのである。命には代えられない。しかし現代は家電によって一人でも生きていける。社会がそれに気付くのにはしばらくかかった。そして結婚が義務でなくなると当然子供が生まれにくくなる。今の日本はこんな段階で悩んでいる。

 

長谷川三千子氏は「生活の糧をかせぐ仕事は男性が主役となるのが合理的」と言う。しかしそれは前近代の合理的理由である。申し訳ないが僕にはマリッサ・メイヤーくらい稼ぐ甲斐性はない。現代の仕事は肉体労働以外の仕事が増えたため、男女の役割分担に合理的理由がなくなってきているのである。

 

少子化の解決策は結局のところ家電ではカバーできない「子育て」をどう社会が支援するかに尽きる。託児所・保育所には公的資金をもっと投入すべきである。いち早く少子化が始まった欧州ではこれが対策の主流だ。また託児所・保育所の料金を自由化して保育士の賃金を上げるべきという意見もある。子育てのために仕事を辞めるくらいなら少々高い料金でも何年かくらい払うはずだからだ。子供はずっと託児所・保育所にいるわけではない。そして子育てとは男にとっても女にとっても、そしてこれから老いていく独身男女にとっても自分自身の生涯の全うのために共通して負担すべきコストでもある。

 

長谷川女史の言っているのは「昔の日本に戻ってやり直しましょう」ということである。しかしそれは今から発展途上国として世界の後塵を拝する国にわざわざ成り下がるということだ。こんなものはリタイヤ世代の懐古的ファンタジーに過ぎない。今を生きる現役世代にそんなものにつきあう暇はないのだ。