セサミ・ストリートの失敗作から見る「言霊」の源流

最近マルコム・グラッドウェルという人の本を読んでいるが、ネタ取りの多彩さとそこから導かれる独創的な視点が非常に面白い。本によって内容がかぶっていない点も凄いが、この人はとにかく話が上手い。些末で具体的なポイントを抽象的で大きな結論に結びつける。内容が冴えている上にエンターティメント性とわかりやすさがあり、基調になるヒューマニズム的立場が常にぶれない。

 

その著作の一つ、「急に売れ始めるにはワケがある」を読んでいたら、アメリカの児童番組「セサミ・ストリート」に関する興味深い話が出てきた。もっとも以下この頁の内容は本の主旨とは外れ、例として挙げられた内容から考えを広げてみたものである。

 

失敗作「Roy」

 1960年に生まれた「セサミ・ストリート」は画期的な番組であった。それまで個別対応が重要と考えられていた就学前児童の教育にTVを活用しようという試みである。制作にはフランク・オズなど超一流のスタッフが集められ、綿密なリサーチが行われた。

セサミ・ストリートは子供だけでなく親も一緒に見て欲しいという願いからエンターティメント性が重視されている。それが世界各国で放映される高い評価につながっているのだが、時には「大人向け」に振りすぎて失敗することがあった。それが「Roy」というプロットである。

 

これは巨大な黄色いダチョウのようなキャラクター、「ビッグバード」が自分の名前について悩むという話である。

 

・・・大人ならこの時点ですでに面白い。大きい鳥だからって名前もただ「大きい鳥」なんてあんまりじゃないか!というわけである。そこでみんなで彼のために新しく「名前らしい名前」を考え、最終的に「Roy」という名前に決まる。しかしビッグバードは改名寸前になって「やっぱり僕はビッグバードだ。それが僕の名前なんだ。」と考えを変える。

 

大人なら色々考えさせられるプロットである。日本人の名字に一般名詞そのままという例はわりと少ないが、女性の名前にはなぜかよく見られる。英語圏なら、例えば「Smith」という名字は鍛冶屋のことだ。昔「こずえ」という名前の知人がいたが、彼女は辞書を見つけるたびに自分の名前の意味を調べるという妙な習慣を持っていた。自分の名前に「木の枝」という以外の意味はないのだろうかと思っていたのである。彼女は自分の名前に意味性を付加したいと思っていたが、ビッグバードは自分の名前により固有名詞的な限定性を求めていたのである。

 

この話は子供にはまったく受けなかった。子供たちは集中力をなくし、話の内容をよく理解できなかったのである。その理由は、就学前児童にとっては、「一つの物の二つ以上の名前がある」ことは受け入れ難かったからである。

この年齢の子供たちは物の名前というのは明確な意味があると考えている。犬は「犬」と呼ばれる確固とした理由があり、犬を「象」と呼ぶことは許されないと感じているのである。

彼らにとって名前が変わることは存在が変わることである。だからビッグバードが名前を変えたいと言い出すと子供たちは混乱する。ビッグバードは変身しちゃうの?そういえば変身ヒーローというのは変身すると必ず名前が変わるな。

 

名前と言霊

この本の中では、子供というのは名前に意味があると思うことによってこれから出会う膨大な物の名を覚えることができる、と説明されている。たしかに「名前などというものは一つの社会における個別認識のための記号に過ぎない」などと子供が感じていたら覚えるのに苦労するだろう。記憶は理解と意味付けによってなされるものだからだ。

 

しかし進化の過程で「子供がたくさんの名前を覚えるために名前に意味性を付加するよう進化した」などということはありえない。人類の歴史で進化論を当てはめることができるのは、文明以前の自然淘汰圧を受けていた頃の話だけである。思うに、言語を生み出す以前の人類は「声に出す音」に重大な意味があったのではなかろうか。

 

「ウホウホウホー!(そっちにトラがいるぞ!)」

「キキー!(あいつがウホウホ言ってる!これはやばいぞ!)」

 

この場合のウホウホは警戒信号である。言語以前の人類が出す鳴き声は、仲間に伝えるべき重大なメッセージ性を持ってきたはずである。そこから「言霊(ことだま)」という概念が生まれる。言霊は、発せられた言葉がなにかしらの精神的・物理的影響力を持つという思想である。未開の民族の中には名前を知られることを恐れる文化を持つものがある。本名を知られると魂を操られると思っているのである。児童文学の傑作「ゲド戦記」にもそのような設定がある。

 

名前に呪術性を感じる精神は文明社会にもある。貴人は基本的に名前で呼ばれない。「言霊」を意識することは声が発するメッセージに立ち返ることであり、人との関係をより精神的に昇華することでもある。

 

ところで世の中には時々「名前を間違えることは人としてもっとも失礼なこと」てなことを言う人がいる。正直言って名前を間違える以上に失礼な行為は、無数にあると思う。このような人は現代社会において言霊の抽出物としての名前のスピリチュアルな意味を大切にしている人と言える。もしくは言語感覚が5歳で止まっている人である。

 

原始の精神や子供の心を持ち続けるためには、鋭敏な感受性と確固たる自立的な価値観が必要である。しかし自己変革を迫られない単に恵まれた環境でも子供のままの心でいることは可能だ。「名前間違え最失礼論」の人は、たいていの場合、ちょっと苦労が足りなさそうに見える。