牧畜民族という観点から西洋人を理解する

西洋社会は牧畜文化が基になっている。よく「西洋人は狩猟民族」と言う人がいるが、牧畜は狩猟と違い、れっきとした農業である。ヨーロッパの民族は元々狩猟民族ではあったし後々まで狩猟色が濃い地域もあるが、これは日本の縄文文化と同じように考えてよいだろう。基本的に西洋は文明としては牧畜を主体としてきた。

 

ではその「牧畜」とはどういうものであろうか。まずはこれは農業である。植物の代わりに動物を育てる以外は農耕民と変わらない。農村と言う小さな社会を作り、村の秩序を保って生活する。植物だけを相手にする農耕社会との違いは「動物と共に暮らし、これを殺す」という営みが日常の生活に入っていることである。

 

牧畜民はこの「動物を殺す」という仕事と農村の秩序を両立しなければ社会が成り立たない。動物に対して行っている行為を決して人間に対して行ってはならないという倫理を厳しく確立する必要がある。牛は人間になつく。豚は人間に似た臓器を持っている。ヤギの胴はほぼ人間サイズである。こうした動物を殺す、屠畜という行為が生活に必須である以上、「人間と動物は違う」という論理を確立しなければ牧畜社会は成立しない。

 

なので西洋人は古代ギリシアの時代から「人間とは何か」を必死で考えてきた。これは言い替えれば「人間と動物の違いは何か」という意味である。中世の間は宗教が人間は特別なものとしてくれたのでそれに任せておけばよかったが、そのタガが外れるルネサンス以降はこの「人間と動物の違い」を考えることは哲学者の仕事になった。その彼らの仕事による「人間の定義」の成果がやがて市民社会・市民革命を打ち立て、ヨーロッパを世界の一等地に押し上げることになる。

 

よく「古来から日本人はあらゆるものに魂が宿ると考え、自然と共存してきた」と考える人がいるが、こと動物に対する科学的な理解という点では極めて甘いものである。例えば戦国時代は軍馬が大量に必要になったが、その育成法は「放し飼いにしておいてよく育ったものを使う」というだけであった。これでは育ちの悪い馬だけが子孫を残す「逆品種改良」になってしまう。

(もっとも西洋人ももっぱら家畜を通しての理解であったため、あのフロイトですら「父と子の愛情は人間独自のもの」と考えていたりする。しかしこうした点にも西洋人の人間と動物との違いを見つけ出そうとする必死さだけは見て取れる。)

 

さて西洋人はこのように論理でもって人間と動物を峻別しようとしてきたわけであるが、そうはいっても日常的に動物と接する彼らは人間と動物の共通性に潜在意識では気付いていたはずである。動物といえどもうれしければ喜ぶ、仲間を失えば悲しむ、オスとメスは惹き合い子供に愛情を注ぐ。

 

人間と動物が根源的に共通しているのなら、人間が「動物の過ち」を犯すことも時には致し方ない。西洋社会は人間が動物の過ちを犯すことを前提にして組み立てられていると言える。その一つが「死刑廃止」である。どれほど非道な行いをしても最高刑として命までは取らないというのは大方の日本人には理解しがたい。しかし彼らは人間には基本的に人間の枠を外れる要素があり、それを不断の努力で矯めていくのが社会の仕事であると考えているのである。

(アメリカは死刑廃止国ではないが、アメリカにはまた個別の事情がある。またアメリカでも死刑廃止論は一定の確固とした勢力を持っている。)

 

もう一つ日本人に理解しがたい西洋の基本概念に原罪というものがある。キリスト教では人間は生まれながらに罪を背負っているという。(原罪の思想はユダヤ教イスラム教も同様だが、ここでは割愛する。)

「みんな罪人」と考えるくらいなら「みんな祝福された存在」と考えても良さそうなものである。ここには彼らの生活の一部であった「屠畜」が関わっていると考えられる。動物と言えども死の恐怖の前にはおびえ悲しむ。しかし自分は生きるために屠畜を行わなけれなならない。殺人のことを「手を血で汚す」という言い方があるが、西洋人の手は動物の血で汚れている。なぜこんなことになったのか。我々の祖先がなにか重大な罪を犯したのではないか。

 

こうした原罪の意識が、犯罪者も自分もまた同じ罪持つ人間として見る死刑廃止を生む。これは人間はただ人間であるという理由で尊重されるヒューマニズムという、現在の世界を構成する根幹の思想にもつながるのだが、同時に「無原罪への憧れ」という副産物も生み出す。それが過激な自然保護運動である。屠畜という原罪を肌で知っている彼らの一部は自然保護や動物愛護に救いを求める。そしてその矛盾を解決する手段としての菜食主義にも結びつく。さらにはこれが捕鯨反対にもつながってゆく。

 

「この世界は何か間違っているのではないか」とういう感覚はどうも西洋では古くから存在しているようだ。プラトンイデア論を説き、現世が虚ろな影の存在に過ぎないと考えた。グノーシス主義者はこの世界が偽りの神によって創られたと考えた。こうした思想は突き詰めれば反社会的になってしまう(「間違った世界」に貢献するべきではないとして何もせずただ死んでいくことを勧める)ために排斥されてきたが、その反面「良くない世界に良い世界を築く」とい思想が文明を発展させてきたのは間違いない。

(当然その副産物も生じる。例えばクジラの問題は宗教と科学のはざまにあるスピリチュアリズムに腕を取られている。牧畜文化が生み出した宗教と哲学と科学のエアポケットに挟まったクジラは、彼らにとってのグノーシス神なのである。)

 

日本人はこのような動物との深刻な付き合いは持っていないため、西洋思想のまわりくどさを時に理解しがたくなる。ひょっとすると我々は一足飛びに世界の「解答」を知っているのかもしれない。しかしそれに至る「式」を知らないために思わぬ思想的腰の弱さを露呈することになる。これが現代の、極端に狭くなった世界、の中の日本がたびたび直面している問題の原因なのだ。