安倍政権の戦略は支持率が全て

第二次安倍晋三政権というのは過去存在した日本の政権の中では特異性が際立っている。集団的自衛権に代表される自衛隊の国軍化や戦前価値観の復活はもちろんだが、そういった政策の方向性は一旦脇に置いて、ここでは「戦略」の特異性を取り上げたい。

 
歴代首相との違い

元来日本の政治家というのはとにかく野卑なものだった。そうでなくては大衆(政治家含む)の心を掴んでトップに登りつめることなどできなかったからである。建前より本音。これは同族社会である日本社会が持つ習性であり、政治家の世界もまた例外ではなかった。

 

そこに変化が起こるのはまず橋本龍太郎(1996-1998)である。この人は風采が良く、業績もそれなりに残した人である。細川→羽田→村山と非自民内閣が続いた後ということもあってか、以前の宮澤喜一まで続いた自民首相達とは一線を隠す「大衆へのアピール力」を持っていた。

参考:内閣総理大臣の一覧 - Wikipedia

 

橋龍の風采の良さと洒落になる程度に脇の甘い言動は大いに人気を博した。次に続く小渕恵三は苦戦するかに思われたが真逆のキャラで意外に、というか前任者以上に実のある実績(=保守的政策の成立)を残すことになる。

 

その後史上最低の支持率を記録して短命に終わった森喜朗の後を継いだのが小泉純一郎だが、この人は歴代首相とかなり異なる登場の仕方をする。密室禅譲が常態であった自民党総裁選に、大衆の人気と一般党員の圧倒的支持を受けて当選するのである。派閥に頼らず広範な支持を背景にした小泉政権は、派閥の力学からも自由になった。

 

その小泉純一郎は人格の裏表を感じさせない率直な言葉が魅力であった。その後小泉政権時代の「改革」の成果が明らかになるにつれてその清新なイメージも色褪せていくが、この人は(本来政治家の仕事である)「言葉の力」を日本の政治に持ち込んだエポックメイキングな政治家であった。

 

美辞麗句

そして現在の安倍晋三である。この人はとにかく言葉が美しい。下品なヤジなどが話題となった現在ではやや違和感がある評価かもしれないが、コメントを常に美しい言葉で締めるというのはこれまでの政治家にはなかったことである。

 

小泉純一郎は首相時代、閣僚に「失言するな」と厳命していたらしいが、この時代に安倍晋三はこの手法を学んで自分なりに昇華したのであろう。表向きには率直(=粗野・下品)な「本音の言葉」を人気取りに使わず、美しく普遍的な言葉でまとめる。これは政治家としての本質はともかく、能力としては評価されるべきである。

 

支持率コンシャス

その安倍晋三は第一次政権が失敗に終わった後、「みんながやりたいことと自分がやりたいことが違っていた」という趣旨の発言をしている。この反省に立った第二次安倍政権ではまず「みんなのやりたいこと」を叶える、それによって「支持率」を得て「自分のやりたいこと」を実現させるという戦略を取っている。

 

これは企業であればまことに正しい経営理念であろう。実際のところ保守的な思想の持ち主には企業戦略と国家の採るべき政策を混同している人が多いように感じられるが、それはさておき、この「みんなのやりたいこと」とは何か。それは経済政策である。つまりアベノミクスだ。

 

どんな高邁な理想を掲げた政権も経済政策で失敗すれば終わりである。経済とは金持ちが右から左へ動かす金のことだけではなく、全ての人々の生活に関わるからだ。第二次安倍政権はまず経済政策を美辞麗句で固めたアベノミクスでスタートする。三本の矢というやつだが、重点はまず第一の金融緩和である。前の民主党政権はとにかく経済というものが分かっておらず、やみくもに停滞させてしまっていたその空隙を突いた。

 

「黒田バズーカ」と称される「異次元緩和」を当の黒田総裁が止めようとする段になっても撃ち続ける。これは経済政策の目的が経済の再生そのものではなく、景況感の演出であるからである。続く第二第三の矢も言葉の高揚感や期待感が重視されている。

 

「支持率」とはつまるところ「期待感」の言い換えである。就任当時のオバマや小泉の驚異的な支持率も期待感が起こした数字である。これを一定期間以上維持するというのは何大抵ではない。期待感の底が割れないように次から次へと花火のように華々しく、かつあいまいな政策を打ち上げていかなくてはいけない。生真面目な政治家にはこれはできないだろう。事実歴史上高い支持率を得た政治家に謹厳実直な人はあまりいない。

 

敵を作る=味方を作る

経済性政策で「みんなのやりたいこと」を実現する(ように見せる)のは良い(?)として、安倍晋三の「自分のやりたいこと」とは何か。それは戦前の価値観の復活である。日本の教育は「自我を確立する」よりは同調を求める傾向があり、これが自我の境目があいまいな人間を作り出す。そうした人々は自分と国家を同一視しやすく、「昔の日本は悪かった、んじゃなくてむしろ良かった」という単純なパラダイム変換に惹きつけられやすい。

 

戦前の価値観、つまり国家主義を復活させるためには個人の主張を封殺するためにののっぴきならない事情、対外的な脅威が必要である。幸い(?)韓国というのは思い切り挑発に乗りやすい国であるので、「美辞麗句」でつつくだけで簡単に緊張関係を演出してくれた。とはいえ韓国はアメリカと同盟関係にある小国でしかない。中国という対岸の巨大な存在が「脅威」の本元であり、この認識が政権支持者の論拠ともなっている。

 

日本の政治の変化

以前麻生太郎が「ナチスの手法に学んではどうか」と言って問題になった。この「ナチスの手法」は認識が間違っている(「誰も気づかないうちに憲法が改正された」と言ったが実際は暴力的手段で大騒動のうちに停止された)上に実際学んでしまっている(憲法無視の法案成立は全権委任法に通じる)点が更に問題だが、言葉を美しくまとめるのは政治の戦いを優位に進めるにあたって大切なことである。この手法は対抗勢力も学ぶべきだろう。

 

現在は安保法制反対デモが盛り上がっているが、SEALDsに代表される若者中心の政治活動は見た目や言葉に気を使っている点が、従来のひたすらエネルギーをぶつける反政府デモとは大きく異る。日本の政治家や政治活動家は、人々に好感を得なければ支持が集まらないというごく当たり前の事実に気づき始めたのだろう。