マーケティング仮説:消費者は徐々に「賢明化」する

企業にとってマーケティングで市場の変化を敏感にとらえることは大切だ。しかしそれが簡単ではないことは、名だたる大企業がたびたび変化の流れを読み間違えて失敗していることからもわかる。市場の変化自体は売れ行きにそのまま表れるはずなのだが、重その変化が一時的な変化なのか、それとも長期的なトレンドなのかという点を判断するのは難しい。

この点を読み間違えると単なる一時的なゆれに対して過剰な設備投資をしてしまったり、逆に商機を逃して市場を競合に奪われるということが起こる。これに対する判断基準としてひとつの指標というものはないものか。そこで「顧客の消費行動は徐々に賢明になる」という仮説を唱えてみる。

 

2012年頃の経済紙の特集にはもっぱら「アベノミクスで消費増」という文字が躍っていた。景況感の中で少し余裕の出てきた消費者は「ちょい高消費」など日常の生活の中で少し奮発した贅沢を楽しむようになっていた。その後消費税増税による駆け込み需要、その反動による消費の落ち込みと続く。そして予想された次の段階は反動減が終わって消費が回復することだった。しかし「反動減」が終わってもそのまた反動による消費回復はなかなか起こらない。これは一時の「ゆれ」とは違う長期的な変化、人々の消費行動そのものが変化したためだ。

 

人が消費行動を変えるときには何かのきっかけがいる。収入が減るなり大きな支出の必要性が生まれれば他の支出を減らす。その際にそれまで自覚していなかった無駄に気付くことになる。「このくらい払うのが当たり前」と思っていた支出が実は必要ではなかった、などという気づき。特にここ20年は「なんだこんなに払わなくてもよかったんだ」という変化の連続であった。

 

こういう変化には何かのきっかけが必要である。変化しない社会では消費活動の変化はなかなか起こらない。日本はずっとデフレだ(いまだ過去形にはできないが)が、そもそも現代文明は経済成長を前提としており、景気がずっと後退し続けるのは異常事態である。その中では価格破壊という名のイノベーションが起こる。例えば100円均一ショップの出現は日本人に「必ずしもちゃんとした製品でなくても間に合わせの安物で充分な場合がある」ということを教えた。

 

こうした変化の中でも法改正などは全体に大きな影響を与える。消費税増税によって全般的な値上がりを感じた消費者は細かな支出を見直す。さらにそれまでの「ちょい高消費」によって「良いもの」の価値を知ったため、必要でない支出を減らして自分がより望むものに支出を傾けるようになる。こうして数々のきっかけを経て人々の消費行動は賢明になっていく。

 

このように消費行動の変化は外的要因によって引き起こされる。簡単に言えば「値段の変化」である。昔から値付けの変わらないものに対しては人は値段に疑念を抱かず、価格はブラックボックス化するが、そこに「価格破壊」が起これば顧客は値付けの根拠を問い直すことになる。

 

この点から見て大きく失敗したと言えるのが現在苦境に陥っているマクドナルドである。同社は大きく値下げをして買い得感をアピールした後、少しづつ値上げして利益を上げようとする戦略をとってきた。ここにはまず大きな見落としがある。一つ目はかつて低価格に惹かれた顧客が、その後の少しの値上げに気付かないであろうという甘い見立てである。同じ人間でも安い物を買う時と高い物を買う時では値段の変化に対するセンシビリティは大きく異なる。まして低価格戦略を打ち出す際のターゲット層は特に値段の差に敏感であるはずである。

 

そしてこのような値付けの変化、さらに地域別価格の導入は顧客に価格設定の根拠に対する疑念を抱かせる。こうした価格戦略は経営として合理的な発想から生まれたものであるが、顧客を合理的に攻略しようとすれば顧客もまたそれに合理的に対抗してくる。

 

外食産業では原価率の高いメニューで客を集め、原価率の低いサイドメニューで利益を上げようとする戦略はごく普通に行われている。しかしマクドナルドはむやみな価格の変化によって「顧客の賢明化」を自ら引き起こし、自社の利益を圧迫するよう仕向けてしまったのである。

 

この「顧客の賢明化」という変化を一般的なマーケティングに生かすためにはどうすればよいか。もし原価率と商品の売れ行きに明らかな相関があるときには顧客は企業に余計な利益を与えたがってはいないと判断できる。ここで必要なのは「原価率の低い売れ筋商品」をひねりだしてさらに顧客の裏をかこうとすることではなく、まず価格の適正化に取り組むことである。

 

また急に人気になった製品があったとし、それが本来の価値と乖離しているような場合はそのムーブメントは長くは続かないことが予想される。その他にも税制改革や景気などの大きな変化の際には顧客の消費行動が賢明化することを念頭に置くとよい。もし顧客の賢明化が十分に起こっている場合は「適正な品質と価格」を訴えることによって市場で優位に立てる可能性があるのである。

 

現在東京には「原価バー」なる居酒屋チェーン店が存在する。一定の「入店料」を支払うと酒や食事メニューが「原価」で提供されるというシステムである。この入店料も立地によって変化する。いわば究極の明朗会計である。

 

原価バーは少々時代を先取りしすぎているかもしれないが、全体としては外食産業は徐々にこの方向に進むのではないかと思われる。客の足元を見て気付かないとこから出来るだけふんだくろうという戦略はもう古い。消費者の選択はどんどシビアになっていくわけだが、実はこれは供給側にとっても悪いことばかりではない。不当廉売のような「力押し」が通じなくなり、まっとうな商売が評価されるようになるからである。

 

この「顧客の賢明化」という仮説は少々進歩思想的、楽観的に過ぎるかもしれないが、時代の大きな流れとして念頭に置いておけばマーケティング戦略をそう大きく誤ることは少なくなるのではないかと思う。

農耕民族と言う観点から日本人を理解する

このタイトルは一見何の変哲もない印象を与えると思うが、前のエントリー、「牧畜民族という観点から西洋人を理解する」の続きである。西洋の思想、それも根源的な感覚は時に日本人に理解しがたく感じる。それを「牧畜民族」という要素に想像力を使うことによって理解しようという試みであった。であれば同じ要素から日本を理解することも可能である。日本には日本人にも理解しがたい日本独特の現象があるからである。

 

日本では古来から動物を殺して食う習慣が少なかったため、牧畜民族が直面してきた葛藤からは逃れてきた。日本の動物利用はまず農耕用、移動用である。あとは野生動物として「花鳥風月」と同じ付き合いである。この付き合いの「薄さ」は、例えば平安時代のあの優雅な「牛車」にも表れている。平安時代の牛車は、牛が去勢されていないためによく暴走したらしい。

 

日本人は主に植物と人間を相手にしてきた。この世界では最初から「人間」だけが生まれてくるという前提である。対して西洋人は動物と暮らすことで人間の「動物性」を潜在意識で知っており、それを前提としてきた。つまり人間とはまず動物として生まれ、それを人間として訓練することで人間になる。だから彼らの世界は礼儀とは違った意味での「行儀」に厳しい。例えば日本では靴裏を草履のようにズリズリこすって歩く人がいるが、西洋では幼児のうちに矯正される。向こうではスパゲティをすすりこんではいけないのは多くの人が承知であろう。酔っぱらって電車に乗るのも多くの国で御法度である。

 

日本の社会はこういった行儀の悪さや「人間としての未熟さ」に関しては比較的寛容である。しかし法を犯すといった「一線を超える」と社会から追放される。農耕社会は共同作業によって成り立つために、その社会の掟を破る者を共同体の中に留め置くことができないからである。そして農耕民は基本的に一人で生きていく能力を持っていないため、「社会からの追放」はそのまま死を意味することになる。

 

日本では法とモラルを混同する人が多い。これは民主主義が未成熟であるという他に、この長く培った農耕民族としての習性が根底にある。それは社会の規範から外れることへの恐怖感である。農村における刑罰としては村八分がある。そして武家社会においては切腹となる。いずれもいったん人間の列を外れたらもう後はない。この恐怖感は「治安の良さ」という圧倒的美点を日本人社会にもたらしたが、残念ながらその副作用として人間の行いに対する不寛容さを生み出した。

 

大方の日本人はなんとなく「日本人は神羅万象あらゆるものに魂の存在を認め尊重してきた」と考えているが、それはあくまで農耕社会の農村の規範を守る村人の間でのみ許される特権である。そこから外れる人間については関知しない。村を出ていった人間はもはや村の掟に従っていないのだから、かばったり擁護したりする必要はないのである。この精神が不可解な人質バッシングという現象を生む。

 

世のため人のために危険な戦地に出向いて何事かを成そうという人を、なぜその出身国の国民が貶めようとするのか。イラク人質事件の際には家族による連日の強硬なTV記者会見が不快感を呼び起こしたという側面はある。しかし今回の「自称イスラム国」による人質事件で早速バッシングが起こるというのは、これらが共通の日本的由来を持っていることを意味する。彼らが主張しているのは「自分はあいつらとは関係ありません!」という主張である。そんなことは本来言わなくてもいいことなのだが、わざわざ言ってしまうのは我々農耕民が持つ連帯責任なる奇妙な観念が関係している。

 

こうした事件で多用される自己責任なる言葉は「自分の責任だから自由にしてよい」という意味ではもちろんない。これは他の概念を言い替えた言葉である。それは「彼らの責任に自分たちは関係ない」ということである。本来「責任」とは自由と自己裁量に伴うものであるが、農耕社会では連座というものが存在する。自分ではまったくどうにもできないことでも、罪人と連なれば自分も罪をかぶらなければならないのである。そして農耕社会では罪をかぶるのは即社会からの追放、つまり死を意味する。気の毒な同朋に対して「自己責任」を叫ぶ人々は自身の「連座」を恐れているのである。

 

かつての農村はその構成員の生活と人生を完結させる運命共同体であった。その時代にはたしかにそれらの不条理にも生きるための理由があった。しかし現在の我々はそのような社会には生きてはいない。今一度自らのルーツを見つめ直し、手を切るべき要素とは決別すべきである。

 

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補足:

農耕社会ではなぜ「連座」が起こるのか。それは農耕社会では共同作業が前提であるためである。牧畜社会では一人の人間が複数の動物の世話をするため、例えば「羊を逃がしたのは誰か」という責任は明確である。農耕社会における共同作業では何か問題が起こっても「誰のせい」なのかは解明しにくく、結果「みんなの責任」ということになる。このような社会では「人様に迷惑をかけない」ということが共同体モラルの中の大きな要素になる。

 

牧畜民族という観点から西洋人を理解する

西洋社会は牧畜文化が基になっている。よく「西洋人は狩猟民族」と言う人がいるが、牧畜は狩猟と違い、れっきとした農業である。ヨーロッパの民族は元々狩猟民族ではあったし後々まで狩猟色が濃い地域もあるが、これは日本の縄文文化と同じように考えてよいだろう。基本的に西洋は文明としては牧畜を主体としてきた。

 

ではその「牧畜」とはどういうものであろうか。まずはこれは農業である。植物の代わりに動物を育てる以外は農耕民と変わらない。農村と言う小さな社会を作り、村の秩序を保って生活する。植物だけを相手にする農耕社会との違いは「動物と共に暮らし、これを殺す」という営みが日常の生活に入っていることである。

 

牧畜民はこの「動物を殺す」という仕事と農村の秩序を両立しなければ社会が成り立たない。動物に対して行っている行為を決して人間に対して行ってはならないという倫理を厳しく確立する必要がある。牛は人間になつく。豚は人間に似た臓器を持っている。ヤギの胴はほぼ人間サイズである。こうした動物を殺す、屠畜という行為が生活に必須である以上、「人間と動物は違う」という論理を確立しなければ牧畜社会は成立しない。

 

なので西洋人は古代ギリシアの時代から「人間とは何か」を必死で考えてきた。これは言い替えれば「人間と動物の違いは何か」という意味である。中世の間は宗教が人間は特別なものとしてくれたのでそれに任せておけばよかったが、そのタガが外れるルネサンス以降はこの「人間と動物の違い」を考えることは哲学者の仕事になった。その彼らの仕事による「人間の定義」の成果がやがて市民社会・市民革命を打ち立て、ヨーロッパを世界の一等地に押し上げることになる。

 

よく「古来から日本人はあらゆるものに魂が宿ると考え、自然と共存してきた」と考える人がいるが、こと動物に対する科学的な理解という点では極めて甘いものである。例えば戦国時代は軍馬が大量に必要になったが、その育成法は「放し飼いにしておいてよく育ったものを使う」というだけであった。これでは育ちの悪い馬だけが子孫を残す「逆品種改良」になってしまう。

(もっとも西洋人ももっぱら家畜を通しての理解であったため、あのフロイトですら「父と子の愛情は人間独自のもの」と考えていたりする。しかしこうした点にも西洋人の人間と動物との違いを見つけ出そうとする必死さだけは見て取れる。)

 

さて西洋人はこのように論理でもって人間と動物を峻別しようとしてきたわけであるが、そうはいっても日常的に動物と接する彼らは人間と動物の共通性に潜在意識では気付いていたはずである。動物といえどもうれしければ喜ぶ、仲間を失えば悲しむ、オスとメスは惹き合い子供に愛情を注ぐ。

 

人間と動物が根源的に共通しているのなら、人間が「動物の過ち」を犯すことも時には致し方ない。西洋社会は人間が動物の過ちを犯すことを前提にして組み立てられていると言える。その一つが「死刑廃止」である。どれほど非道な行いをしても最高刑として命までは取らないというのは大方の日本人には理解しがたい。しかし彼らは人間には基本的に人間の枠を外れる要素があり、それを不断の努力で矯めていくのが社会の仕事であると考えているのである。

(アメリカは死刑廃止国ではないが、アメリカにはまた個別の事情がある。またアメリカでも死刑廃止論は一定の確固とした勢力を持っている。)

 

もう一つ日本人に理解しがたい西洋の基本概念に原罪というものがある。キリスト教では人間は生まれながらに罪を背負っているという。(原罪の思想はユダヤ教イスラム教も同様だが、ここでは割愛する。)

「みんな罪人」と考えるくらいなら「みんな祝福された存在」と考えても良さそうなものである。ここには彼らの生活の一部であった「屠畜」が関わっていると考えられる。動物と言えども死の恐怖の前にはおびえ悲しむ。しかし自分は生きるために屠畜を行わなけれなならない。殺人のことを「手を血で汚す」という言い方があるが、西洋人の手は動物の血で汚れている。なぜこんなことになったのか。我々の祖先がなにか重大な罪を犯したのではないか。

 

こうした原罪の意識が、犯罪者も自分もまた同じ罪持つ人間として見る死刑廃止を生む。これは人間はただ人間であるという理由で尊重されるヒューマニズムという、現在の世界を構成する根幹の思想にもつながるのだが、同時に「無原罪への憧れ」という副産物も生み出す。それが過激な自然保護運動である。屠畜という原罪を肌で知っている彼らの一部は自然保護や動物愛護に救いを求める。そしてその矛盾を解決する手段としての菜食主義にも結びつく。さらにはこれが捕鯨反対にもつながってゆく。

 

「この世界は何か間違っているのではないか」とういう感覚はどうも西洋では古くから存在しているようだ。プラトンイデア論を説き、現世が虚ろな影の存在に過ぎないと考えた。グノーシス主義者はこの世界が偽りの神によって創られたと考えた。こうした思想は突き詰めれば反社会的になってしまう(「間違った世界」に貢献するべきではないとして何もせずただ死んでいくことを勧める)ために排斥されてきたが、その反面「良くない世界に良い世界を築く」とい思想が文明を発展させてきたのは間違いない。

(当然その副産物も生じる。例えばクジラの問題は宗教と科学のはざまにあるスピリチュアリズムに腕を取られている。牧畜文化が生み出した宗教と哲学と科学のエアポケットに挟まったクジラは、彼らにとってのグノーシス神なのである。)

 

日本人はこのような動物との深刻な付き合いは持っていないため、西洋思想のまわりくどさを時に理解しがたくなる。ひょっとすると我々は一足飛びに世界の「解答」を知っているのかもしれない。しかしそれに至る「式」を知らないために思わぬ思想的腰の弱さを露呈することになる。これが現代の、極端に狭くなった世界、の中の日本がたびたび直面している問題の原因なのだ。

思考実験 ―日本の漁業が壊滅するとどうなるか?

日本の漁業というのは実は危機に瀕しているのだが、その意識が広まっているとは言い難い。例えばこのニュースではホッケの不漁によって動物園がエサに困っているという「おもしろニュース」の扱いになっている。

 

北海道ホッケが不漁 意外な場所に影響が… | 日テレNEWS24

 

ここには「ホッケなんて獲れなくても困るのは居酒屋と動物園だけ」という侮りが見られる。マグロやウナギと同じ漁業の問題だという認識がない。獲れないマグロ、消えたウナギ、獲らせてもらえないクジラの問題は「日本の食文化」の問題だととらえられている。ホッケは大した「文化」じゃないから軽い扱いというわけだ。

 

ここでタイトルの「日本の漁業が壊滅」という前提の補足説明として、一旦マグロに関する日本の漁業政策を取り上げておく。

 

クロマグロの未成魚、漁獲量半減で合意 太平洋西側 :日本経済新聞

 

「漁獲量半減で合意」という記事だが、実際はこういうことである。

 

勝川俊雄公式サイト - クロマグロの国際合意の総括

 

つまり数字のマジックによって自国の削減量は微小に抑え、他国に大幅削減を押し付けるという日本外交の大勝利である。で、その結果日本はマグロをこれまで通りに獲りまくれるわけだ。減っているのに。

 

こうした自国の資源を自ら喰い尽くす政策によって日本の漁業は壊滅に向かう。で、ここで思考実験である。もし日本の漁業が壊滅したらどうなるのか?

 

まず漁業者は生活が立ち行かなくなるわけだから次々と廃業する。その結果漁村は廃れ、魚が獲られなくなる。するとどうなるか。魚が増える。・・・今の三陸沖の状況と同じで当然の帰結である。そして漁業者が帰ってくるが、問題は誰が帰ってくるのかである。初期投資が莫大な漁業に一から参入できるのは、おそらく企業ではないか。つまり日本の漁業は企業の論理に支配されることになる。

 

これがどういう結果になるかはわからない。もしかすると今よりずっと良くなる可能性はある。しかし公共の海の資源を企業が管理するという状況をきちんとコントロールできるのかどうかは予想できない。

 

ここまでは以前に考えていたことだが、それ以上の問題が起きることに気が付いた。漁業が壊滅すると漁港がなくなるのである。日本の漁港は大量の氷を備蓄し、漁船はそれを積んで出かける。市場でも輸送の段階でも魚は常に氷と共に管理される。なぜそこまでするのか?それはすべて、魚を生で食べるためである。実際シンガポールあたりの高級日本食店などは魚をわざわざ日本から空輸している。現地の漁港では日本のような生食可能な管理などとうてい望めないからだ。

 

一時期生肉や生レバーの衛生問題が話題になったが、我々は肉よりはるかに腐りやすい魚を気軽に生で食べられるために感覚が麻痺していたのである。魚はそうそう生で食えるものではない。それが食えるのは日本の漁港と魚の流通が生食前提で組みあがっているおかげである。

 

日本の漁業が壊滅すると、こうした仕組みも当然消えることになる。一旦壊滅した漁業が復活する時、それは以前とは様変わりしたものになるだろう。壊滅している間、魚食とは主に外国産の冷凍フィレを焼いて食うものになる。生食体制が復活した頃には魚を生で食べられない日本人が増えているかもしれない。

 

これは大きな問題だと思う人もいれば大したことではないと思う人もいるだろう。しかし漁業資源管理は他の国で成功して充分に実績のある政策である。わざわざ無為無策によって世界有数の海を持つ国が水産物輸入国に成り下がり、綿々と築いてきた食文化を投げ捨てる必要はないはずだ。

ナショナリズムは欲望の一種である

椎名林檎による、サッカーW杯のNHK中継のテーマソングが一部で右翼的として取りざたされているようだ。

椎名林檎のNHKサッカーテーマ曲、その“右翼ごっこ”より問題なこと

 

たしかに最初に「にっぽん」というタイトルで「世界で一番なんとかかんとか」という歌詞を聞いた時は、そりゃちょっといかがなものか?と思ったが、後に続くのは「混じり気の無い気高い青」ということでまあ歌詞としては成立している。そのものずばりの言葉を放り込むのが芸風の林檎さんにしては、ちゃんと公式に使えるように上手くまとめた方ではないだろうか。

 

曲はキャッチーでよくできている。今時チアホーンの音を入れるアレンジはどうかと思うが・・・。正直言って個人的には中継のたびに同じ曲を聴かされるのは、少々よくできた曲でも勘弁して欲しいのだが、この点についてはもはやいくら文句を言っても無駄だろう。

 

ナショナリズムは欲望の一種

で、いきなり表題の結論に移りたいのだが、ナショナリズムというのは「祖国愛」とか「危険思想」とかではなくて一種の普遍的な欲望であるということである。本能と言っても良いかもしれない。欲望や本能であるからには食欲や性欲と同じく誰でも持っている。自然な欲求と並べるのが変なら権力欲や認知欲求と並べてもいい。

 

ナショナリズムというのは自分の外に広がった自我である。対象は国とは限らず、範囲の大きさは様々だ。一見すると愛が他者に向けられているように見えるが、範囲は一定の所に限定されている。そしてその外側に対しては無関心、あるいは敵対・競争の意識が生まれる。つまりこれは自分の属するチームへの帰属意識である。誰でも持っている感覚であり、完全にこれなしで生きていくというのはかなり独立独歩の人であっても少々難しい。

 

たしかに褒められるようなものではないが、かといって持っているからといってけなされるようなものではない。だが度が過ぎれば問題なのは他の欲望と同じである。 現代は欲望を肯定する時代である。しかし古代のような欲望むき出しで強い者勝ちというわけにはいかない。現代では欲望は持ちつつも社会的にも個々にも制御すべきものである。ナショナリズムを欲望として自分の国を讃え、スポーツで相手の国を倒して喜ぶというところに収まればなにも問題ない。その意味で上記の記事の人は少々心配が過ぎると言える。

 

日本の社会の責任意識

さてなぜこのように日本ではナショナリズムが劇薬として忌み嫌われたり、逆に諸手を挙げて喜ばれたりするのか?それには日本の社会が今だ切腹文化から抜けきっていないことに原因がある。日本では誰かに責任を取らせる時、「詰め腹」を斬らせる。そこでは原因の究明と対策がおろそかになる。また責任を取らされる者には抗弁が許されない。日本のトップが責任から逃げまわるのは切腹から逃げているのである。

 

こうした事態は原発問題にも見られる。全国の原発の中で福島級の災害に耐えられるのはどこか?そういった問題に該当する調査があるはずだが、そんなことより当時の首相の振る舞いの方に関心が集まる。そちらの方がまず大事だと思う人はよく考えてもらいたい。

首相に詰め腹を斬らせると言っても、もちろん現代では命で贖ってもらうわけではないから、単に非難して辞任させるだけだ。それでは当然収まらないからその「跡地」に責任を求めることになる。責任を求める対象は今度は原発そのものになる。つまり原発に責任は「あるのか」「ないのか」が論点となる。

だから現在の原発論は推進か廃止しかない。その間の解決策の模索、「徹底的に情報を公開し、原子力産業の体質を変えて存続を訴える」という方向には行かない。推進派は無罪放免を勝ち取ってすべて元通りにしたがっている。「原発が悪い」か「原発は悪くない」かの二者択一になってしまうのである。

 

戦後日本が憲法九条を墨守してきたのは戦争を引き起こした責任を「軍備」に押しつけたからである。戦犯は文字通り腹を斬らされたので残りの責任追求は「跡地」に向かう。なぜなら個人の死で償えるような被害ではないからだ。そして軍備そのものは悪くないという人は逆の論理に走る。つまり「軍備は良い」、そして戦争は正しかったということになる。

 

この問題はアメリカの中絶問題に結果的にちょっと似ている。アメリカでは中絶を容認するか反対するかで大統領選が左右される。人工中絶というのは多くの人にとって「不幸な出来事であり、できるだけ避けなければならないが、時には仕方のない事態」であるはずで、アメリカでも多くの良識的な人はそう思っているはずである。しかし堂々たる建前文化であるアメリカでは中絶は「殺人」か「女性の権利」かのどちらかになってしまう。アメリカの建前文化は多くの局面で合理的に働いているが、カバーしきれない盲点の一つが中絶問題なのである。

 

日本の場合、盲点をもたらすのは切腹文化ということになる。しかし責任があるか、ないかで話を終えられたのは江戸時代までの話である。もし個人の死による決着が認められたとしても、現代の問題はではそれで解決できる範囲を超えていることが多い。日本の社会がいい加減この切腹で決着を付ける責任意識から脱却しなければ、原発憲法もいつまで経っても片は付かないだろう。原発は単なるエネルギー、ナショナリズムは単なる欲望である。重要なのは存在を認めた上でコントロールすることだ。

 

椎名林檎の「NIPPON」は、右翼的だと非難するのも、愛国的だと讃えるのも、歌詞にナショナリズム関係ないじゃんとやり過ごすのも、いずれも間違っている。あの曲は許容範囲のナショナリズムによるエンターティメントである。そして僕は「スポーツイベントにいちいちテーマソングを設定するのなんぞやめて欲しい」と一言添えておく。

セサミ・ストリートの失敗作から見る「言霊」の源流

最近マルコム・グラッドウェルという人の本を読んでいるが、ネタ取りの多彩さとそこから導かれる独創的な視点が非常に面白い。本によって内容がかぶっていない点も凄いが、この人はとにかく話が上手い。些末で具体的なポイントを抽象的で大きな結論に結びつける。内容が冴えている上にエンターティメント性とわかりやすさがあり、基調になるヒューマニズム的立場が常にぶれない。

 

その著作の一つ、「急に売れ始めるにはワケがある」を読んでいたら、アメリカの児童番組「セサミ・ストリート」に関する興味深い話が出てきた。もっとも以下この頁の内容は本の主旨とは外れ、例として挙げられた内容から考えを広げてみたものである。

 

失敗作「Roy」

 1960年に生まれた「セサミ・ストリート」は画期的な番組であった。それまで個別対応が重要と考えられていた就学前児童の教育にTVを活用しようという試みである。制作にはフランク・オズなど超一流のスタッフが集められ、綿密なリサーチが行われた。

セサミ・ストリートは子供だけでなく親も一緒に見て欲しいという願いからエンターティメント性が重視されている。それが世界各国で放映される高い評価につながっているのだが、時には「大人向け」に振りすぎて失敗することがあった。それが「Roy」というプロットである。

 

これは巨大な黄色いダチョウのようなキャラクター、「ビッグバード」が自分の名前について悩むという話である。

 

・・・大人ならこの時点ですでに面白い。大きい鳥だからって名前もただ「大きい鳥」なんてあんまりじゃないか!というわけである。そこでみんなで彼のために新しく「名前らしい名前」を考え、最終的に「Roy」という名前に決まる。しかしビッグバードは改名寸前になって「やっぱり僕はビッグバードだ。それが僕の名前なんだ。」と考えを変える。

 

大人なら色々考えさせられるプロットである。日本人の名字に一般名詞そのままという例はわりと少ないが、女性の名前にはなぜかよく見られる。英語圏なら、例えば「Smith」という名字は鍛冶屋のことだ。昔「こずえ」という名前の知人がいたが、彼女は辞書を見つけるたびに自分の名前の意味を調べるという妙な習慣を持っていた。自分の名前に「木の枝」という以外の意味はないのだろうかと思っていたのである。彼女は自分の名前に意味性を付加したいと思っていたが、ビッグバードは自分の名前により固有名詞的な限定性を求めていたのである。

 

この話は子供にはまったく受けなかった。子供たちは集中力をなくし、話の内容をよく理解できなかったのである。その理由は、就学前児童にとっては、「一つの物の二つ以上の名前がある」ことは受け入れ難かったからである。

この年齢の子供たちは物の名前というのは明確な意味があると考えている。犬は「犬」と呼ばれる確固とした理由があり、犬を「象」と呼ぶことは許されないと感じているのである。

彼らにとって名前が変わることは存在が変わることである。だからビッグバードが名前を変えたいと言い出すと子供たちは混乱する。ビッグバードは変身しちゃうの?そういえば変身ヒーローというのは変身すると必ず名前が変わるな。

 

名前と言霊

この本の中では、子供というのは名前に意味があると思うことによってこれから出会う膨大な物の名を覚えることができる、と説明されている。たしかに「名前などというものは一つの社会における個別認識のための記号に過ぎない」などと子供が感じていたら覚えるのに苦労するだろう。記憶は理解と意味付けによってなされるものだからだ。

 

しかし進化の過程で「子供がたくさんの名前を覚えるために名前に意味性を付加するよう進化した」などということはありえない。人類の歴史で進化論を当てはめることができるのは、文明以前の自然淘汰圧を受けていた頃の話だけである。思うに、言語を生み出す以前の人類は「声に出す音」に重大な意味があったのではなかろうか。

 

「ウホウホウホー!(そっちにトラがいるぞ!)」

「キキー!(あいつがウホウホ言ってる!これはやばいぞ!)」

 

この場合のウホウホは警戒信号である。言語以前の人類が出す鳴き声は、仲間に伝えるべき重大なメッセージ性を持ってきたはずである。そこから「言霊(ことだま)」という概念が生まれる。言霊は、発せられた言葉がなにかしらの精神的・物理的影響力を持つという思想である。未開の民族の中には名前を知られることを恐れる文化を持つものがある。本名を知られると魂を操られると思っているのである。児童文学の傑作「ゲド戦記」にもそのような設定がある。

 

名前に呪術性を感じる精神は文明社会にもある。貴人は基本的に名前で呼ばれない。「言霊」を意識することは声が発するメッセージに立ち返ることであり、人との関係をより精神的に昇華することでもある。

 

ところで世の中には時々「名前を間違えることは人としてもっとも失礼なこと」てなことを言う人がいる。正直言って名前を間違える以上に失礼な行為は、無数にあると思う。このような人は現代社会において言霊の抽出物としての名前のスピリチュアルな意味を大切にしている人と言える。もしくは言語感覚が5歳で止まっている人である。

 

原始の精神や子供の心を持ち続けるためには、鋭敏な感受性と確固たる自立的な価値観が必要である。しかし自己変革を迫られない単に恵まれた環境でも子供のままの心でいることは可能だ。「名前間違え最失礼論」の人は、たいていの場合、ちょっと苦労が足りなさそうに見える。

貸し剥がしウクライナ

ウクライナ問題では様々な観測が出ているが、もっとも説得力があると感じるのはニューズウィーク冷泉彰彦氏の3月6日のコラムである。

 

ウクライナ問題、「苦しいのは実はプーチン」ではないか?

http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2014/03/post-632_1.php

 

ずっとEU派とロシア派で争ってきたウクライナは今回のクリミア併合によって完全にEU派に落ちる。ウクライナへの影響力を持ちたいのならロシア軍まで出してきたのは逆効果ではないのか?と最初ニュースに接した時は思ったのだが、どうもそれこそがプーチンの狙いであるということだ。

ウクライナの経済は破綻寸前で莫大な債務を抱えている。金を貸しているのはもちろんロシアだからデフォルトなんかやらかされたら大損害だ。そこでEUから出来るだけ援助を引き出したい、というよりウクライナをEUに押しつけたい。

 

考えてみればクリミアに軍なんて出してくる意味はないのである。勝手に独立して編入してくると言うのだから。軍をわざわざ見せつけるのは「どーだぁ俺たち恐いだろう。この21世紀に侵略戦争とかやりそうな勢いだろう。それが嫌ならあんたらウクライナの面倒見てね。口先だけじゃなくて。」ということである。

 

国際政治はもちろん本音で動くが、動かすには建前が必要である。ロシアはクリミアに出した軍にはロシア軍章を外して「あれは自警団だ」と言い張っている。ロシアはEUに天然ガスを売りたいしEUは買いたい。しかし正式軍を出してしまえばさすがにその関係は続けられない。そこで一応あれはロシア軍ではないということになっているのである。まったくの茶番だが、この建前が成立しないと双方困ったことになる。

 

なぜクリミアを獲ったのかという理由はこちらが参考になるかもしれない。

 

ウクライナ問題の本質

http://stratpreneur.chalaza.net/?eid=1138

 

こちらのサイトではクリミア沖の黒海の油田によってウクライナが自立できる可能性を潰すという説である。しかし現在ロシアは新しいパイプラインの建設を始めている。

 

ロシア欧州間の新パイプライン建設、ウクライナ危機で複雑に

http://jp.wsj.com/news/articles/SB10001424052702304364704579490290304081668

http://graphics.wsj.com/south-stream-gas-pipeline/

 

ウクライナ危機で複雑に」というタイトルだが、クリミアを獲っておけば黒海ルートのパイプラインの建設はむしろ容易になる。もはやウクライナは用済み、なだめすかす必要もなくなる。

 

しかしここへきて東部がそれぞれ勝手に独立、ロシアへの編入を求めだした。プーチンとしては東部の編入は認めたくないはずである。稼ぎ頭の東部に対しては「お前らはウクライナに残って借金を払え」と言いたいはずだ。

 

興味深いのはウクライナのロシア系住民というのはクリミア半島の他はドネツク州などごく一部にしかいないということだ。(Wikipediaの画像 青がロシア系)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:UaFirstNationality2001.PNG

 

東部に住む「ロシア派住民」はロシア語圏であっても民族的にはウクライナ人なのだが、その東部はロシアへの輸出で成り立っている工業地帯である。なので暫定政府がロシアへの輸出を停止したとたん一斉に反発したわけである。この問題で完全に下手を打ったのはキエフの暫定政府側だ。

 

さてこのまま状況が進めばどうなるか?新パイプラインが完成すれば、ロシアとEUは平然とガスの売買を始めるだろう。旧パイプライン跡に残されるのは、莫大な債務を抱えた貧しい農業国と、世界のどこも承認しない自称ロシアの衛星国である。こうなるともうウクライナ債務不履行は避けられない。ウクライナを助ける者は誰もいない。金ばかりかかって見返りは大してないし、たとえ破綻しても被害を受けるのはロシアだけだからだ。

 

プーチンはおそらくウクライナのデフォルトは既定路線の一部として想定しているに違いない。その被害を最小限に食い止めるための権益確保と、EUの支援によるデフォルト回避の可能性を引き出す、という2つの路線を同時に進めるための行動が、ロシア軍を出動させたクリミア併合だったわけだ。

 

ウクライナのガス代不払いを理由にEUへのガス供給停止をちらつかせたりしているが、それによって建前だけで正義の味方ヅラしているEUに現実の支援、つまり金を出させるのが本命だろう。クリミアを獲ったのはあくまで保険である。「独立祝いにプレゼントした土地を(住民の意思で)返してもらっただけ」という論理は、もちろん国際社会では通用しないがロシア圏内では通用する。

 

ウクライナ破綻に備えてはいるが、あくまでそれは次善の策である。だからプーチンが次のウクライナ大統領選を支持しているのも、東部の独立を歓迎していないのもなんら不可解なことではない。EUの助けを借りて再建し、金を返してもらうのが第一だからだ。もし破綻したら根こそぎ剥がしてタダ働きさせないといけないが、それまでは兵器でもガスの元栓でも何でも使ってEUに揺さぶりをかけてくるはずである。

 

まことにお利口なプーチンさんだが、この手段を選ばないやり方はまるでヤクザの取り立てだ。日本ではこの機にロシアにすり寄って北方領土返還の道を開こうなどと考えている人もいるようだが、相手がヤクザだということをよく認識した方がいい。どんな条件を呑まされるか分かったものではない。