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農耕民族と言う観点から日本人を理解する

このタイトルは一見何の変哲もない印象を与えると思うが、前のエントリー、「牧畜民族という観点から西洋人を理解する」の続きである。西洋の思想、それも根源的な感覚は時に日本人に理解しがたく感じる。それを「牧畜民族」という要素に想像力を使うことによって理解しようという試みであった。であれば同じ要素から日本を理解することも可能である。日本には日本人にも理解しがたい日本独特の現象があるからである。

 

日本では古来から動物を殺して食う習慣が少なかったため、牧畜民族が直面してきた葛藤からは逃れてきた。日本の動物利用はまず農耕用、移動用である。あとは野生動物として「花鳥風月」と同じ付き合いである。この付き合いの「薄さ」は、例えば平安時代のあの優雅な「牛車」にも表れている。平安時代の牛車は、牛が去勢されていないためによく暴走したらしい。

 

日本人は主に植物と人間を相手にしてきた。この世界では最初から「人間」だけが生まれてくるという前提である。対して西洋人は動物と暮らすことで人間の「動物性」を潜在意識で知っており、それを前提としてきた。つまり人間とはまず動物として生まれ、それを人間として訓練することで人間になる。だから彼らの世界は礼儀とは違った意味での「行儀」に厳しい。例えば日本では靴裏を草履のようにズリズリこすって歩く人がいるが、西洋では幼児のうちに矯正される。向こうではスパゲティをすすりこんではいけないのは多くの人が承知であろう。酔っぱらって電車に乗るのも多くの国で御法度である。

 

日本の社会はこういった行儀の悪さや「人間としての未熟さ」に関しては比較的寛容である。しかし法を犯すといった「一線を超える」と社会から追放される。農耕社会は共同作業によって成り立つために、その社会の掟を破る者を共同体の中に留め置くことができないからである。そして農耕民は基本的に一人で生きていく能力を持っていないため、「社会からの追放」はそのまま死を意味することになる。

 

日本では法とモラルを混同する人が多い。これは民主主義が未成熟であるという他に、この長く培った農耕民族としての習性が根底にある。それは社会の規範から外れることへの恐怖感である。農村における刑罰としては村八分がある。そして武家社会においては切腹となる。いずれもいったん人間の列を外れたらもう後はない。この恐怖感は「治安の良さ」という圧倒的美点を日本人社会にもたらしたが、残念ながらその副作用として人間の行いに対する不寛容さを生み出した。

 

大方の日本人はなんとなく「日本人は神羅万象あらゆるものに魂の存在を認め尊重してきた」と考えているが、それはあくまで農耕社会の農村の規範を守る村人の間でのみ許される特権である。そこから外れる人間については関知しない。村を出ていった人間はもはや村の掟に従っていないのだから、かばったり擁護したりする必要はないのである。この精神が不可解な人質バッシングという現象を生む。

 

世のため人のために危険な戦地に出向いて何事かを成そうという人を、なぜその出身国の国民が貶めようとするのか。イラク人質事件の際には家族による連日の強硬なTV記者会見が不快感を呼び起こしたという側面はある。しかし今回の「自称イスラム国」による人質事件で早速バッシングが起こるというのは、これらが共通の日本的由来を持っていることを意味する。彼らが主張しているのは「自分はあいつらとは関係ありません!」という主張である。そんなことは本来言わなくてもいいことなのだが、わざわざ言ってしまうのは我々農耕民が持つ連帯責任なる奇妙な観念が関係している。

 

こうした事件で多用される自己責任なる言葉は「自分の責任だから自由にしてよい」という意味ではもちろんない。これは他の概念を言い替えた言葉である。それは「彼らの責任に自分たちは関係ない」ということである。本来「責任」とは自由と自己裁量に伴うものであるが、農耕社会では連座というものが存在する。自分ではまったくどうにもできないことでも、罪人と連なれば自分も罪をかぶらなければならないのである。そして農耕社会では罪をかぶるのは即社会からの追放、つまり死を意味する。気の毒な同朋に対して「自己責任」を叫ぶ人々は自身の「連座」を恐れているのである。

 

かつての農村はその構成員の生活と人生を完結させる運命共同体であった。その時代にはたしかにそれらの不条理にも生きるための理由があった。しかし現在の我々はそのような社会には生きてはいない。今一度自らのルーツを見つめ直し、手を切るべき要素とは決別すべきである。

 

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補足:

農耕社会ではなぜ「連座」が起こるのか。それは農耕社会では共同作業が前提であるためである。牧畜社会では一人の人間が複数の動物の世話をするため、例えば「羊を逃がしたのは誰か」という責任は明確である。農耕社会における共同作業では何か問題が起こっても「誰のせい」なのかは解明しにくく、結果「みんなの責任」ということになる。このような社会では「人様に迷惑をかけない」ということが共同体モラルの中の大きな要素になる。